2:憂鬱
「いってきま〜す」
朝、私は元気に家を出た。
私は、電車で数駅揺られたところにある某私立大学に通っている、現役の女子大生だ。身長が低いせいでよく中学生と間違えられるのが、かなり気になるところではあるが…。
「おはよう!」
今日は、小学生の登校時間と重なった。といっても、大学の授業が始まるまでには多少時間があり、それまでの時間、午前中の二、三時間だが、サークルの事でやりたかったことがあるので、今から向かうのである。
すれ違った集団登校の小学生たちも、私に大きな声であいさつを返してきた。
子供は元気があっていい。
ああ。こんな清々しい朝は、何かいいことがありそうだ。
私の名前は、井元香恵。某私立大学の二年生で、吹奏楽部でホルンを吹いている。
今日は、来月末にある演奏会の楽譜を、部室で編曲しようと思っている。
ちょうど駅に着いた時、急に携帯電話が鳴った。ちなみに着メロは私が自分で作曲したやつだ(題名はない)。その方が、例えば店で電話が鳴っても、誰の電話が鳴ってるのかすぐわかるので便利だ。
「もしもし?」
『あ、もしもし? 香恵さん?』
この声は園長先生…。
「おはようございます。どうかしたんですか?」
私がバイトでお世話になっている、近所の幼稚園の園長先生だ。しかし、こんな朝早くに電話してくるなんて、どうかしたのだろうか…。
『ごめんなさいね。こんな朝早くに』
私が今日は授業があるということを知っているため、この時間ならまだ寝ているかもしれないと思っていたのだろう。園長先生はすまなそうに言った。
しかし、実際は違う。私は昨日のサークルの帰り、明日はバイトもないし、朝から編曲でもしよう、と考えていたのだ。寝ている場合ではない。しかし、当然だが園長先生はそんなことは知らない。
『あのね、実は今日つばめ組の先生が風邪でお休みしてるのよ。香恵さん、申し訳ないんだけど、午前中一時間か二時間だけでも出てきてもらえないかしら』
え〜。今から学校に……。
と心の中で断るが、実際に口から出た言葉は、
「わかりました。今駅にいるんで、すぐいきます」
だった……。
どうしてここにいるんだろう…。
私はつばめ組の教室の縁側に座り、外を元気に走り回っている園児達を眺めながら思った。
幼稚園は、上から見たら「U」というか、「コ」の形をしていて、グラウンドを校舎が囲んでいることになる。
「コ」の内側がすべて縁側になっていて、そこに教室の入り口と共に園児用のロッカー、靴箱が置いてある。と言っても外からしか中に入れないというのではなく、ちゃんと正面玄関から中に入って、廊下を歩いて教室に入ることもできる。
「はあ…」
頼まれたら断れない。この性格、ほんとどうにかしたい。
どうして私は断れないんだろう…。
家はしつけが厳しかったせいか、というのは、親の言う事に疑問を持ってはいけないというものだった。他人に物事を頼まれ、断ると怒られそうで恐いのだ。
目を伏せ、頭を抱える。
自分の性格は変えられないのだろうか、と思う。いつも思う。次は断ろうと心に固く誓う。しかし、怒られたくないというのと、嫌われたくないという思いが強く、結局承諾してしまうだろう。
「はあ…」
また溜め息が出た。
我ながら情けない。
本当なら、今頃は部室で定演(定期演奏会)用の曲の編曲をしているはずなのだ。それが、何が悲しいのか、こんな教室で子供達の面倒を見ている。まあ、子供は好きだし、これはバイトとは言え仕事なので文句は言えないが、…うあ〜誰か何とかして〜…と叫びたくなる。
「お姉ちゃん先生頭痛いのお?」
――ん? 顔を上げると、女の子がひとり私の顔を覗き込んでいた。
「だ、大丈夫。ちょっと精神統一してただけ」
子供に何を言ってるんだろう、と思いながら、そんな自分に苦笑いを浮かべるしかない私は、意味もなく力こぶをつくって見せた。
私は正式な保母さんではない。まだ学生なので、免許も持っていない。だから、ここではバイト扱いで、子供達には姉ちゃん先生と呼ばれている。子供たちにとっては正規だろうがアルバイトだろうが、先生に変わりないと思っているので最後に先生を付けてくれるが、別にただ「お姉ちゃん」と呼んでくれるだけでいいのだが、園長先生にお姉ちゃんの後に先生を付けるようにと教育されたらしい。
「ふ〜ん…。お姉ちゃん先生も一緒に遊ぼうよぉ!」
無意識に頭を抱えてしまっていたため、それをこの子は頭が痛いと勘違いしたらしい。
本当に精神統一の意味がわかったのかは不明だが、その女の子は無邪気な笑顔で、私の腕を引っ張り、無理矢理外へと連れ出す。
「(とりあえず、今はみんなと遊ぼう!)」
女の子の笑顔を見ていると、悩んでいるだけ無駄というような気がしてきた。とにかく、私がここにいるのは確かなんだから、ここは私にできるだけのことを精一杯すればいい、と、思った。
「………」
だからって、何も鉄棒を昇って降りる競争を、ムキになって園児達と一緒にやることはないと思う…。三十分もしないうちに、私は教室の縁側で横になっていた。
疲れた……。
「大丈夫〜?」
結局園児に心配されてる私は一体…。さっきの女の子である。
ここの幼稚園の教室は、外側の側面が下駄箱になっていて、仕切る壁はなく、その代りに大きな窓が付いている。だから、感覚的には縁側で、ここからベランダへ出られる、といった感じだ。その縁側に、私は寝っ転がっているのだった。
「大丈夫? はい、おしぼり」
そう言ってやってきたのは園長先生だ。わざわざおしぼりまで持ってきてくれたのだ。
教室に寝転んでいた私は上半身だけ起こし、それを受け取った。
「ふあ〜」
冷たいおしぼりを顔にあてると、ついそんな間の抜けたような声が出てしまう。
気持ちいいんだからしょうがないの!
「すみません、年甲斐も無くはしゃいじゃって」
一息ついたあと、私は言った。
「なんかこう、無邪気に走り回る子供達を見てたら、つい私も童心に戻った気になっちゃって」
舌を出して笑ってみせると、
「今でも子供でしょ」
と、園長先生に言われた…。
「あなたも他の先生たちも、あまり歳は変わらない人が多いのに、子供達はあなたのことだけ『お姉ちゃん先生』って呼ぶでしょう? それだってあなたのこと年齢通りに見ていない証拠じゃない」
「いや、それは私が臨時のアルバイトだからじゃ…」
小声で言い返してみると、
「なんだわかってた?」
と、園長先生も年甲斐も無く―本人に言うと怒るが―無邪気に笑って見せた…。
「さて、じゃあ、あなたに代わって私が子供達の相手をしようかねえ」
園長先生はよいしょと言って立ちあがると、窓に手をついてからサンダルを履き、ゆっくりと外に出て行った。
「無理しないでくださいよ」
と心の中で呟いて見た。
「――ふう……」
ひとりになった私はもう一度寝転がり、天井を見つめる。
「(何やってんだろ、私…)」
今日は楽譜の編曲とその練習をしようと思っていたのに…。
その上、せっかく幼稚園に来たんだからって前向きに子供達と遊んでたら、はしゃぎ疲れて私が倒れて…。
今日は調子がおかしいなあ。出だしはよかったのに、一度挫かれると、もうダメだ。もう今日は一日良い事はないはずだ。二十年生きてきた経験でわかる。
「…ブルーになってきた……」
こうなってしまうと、もう何もやる気が起こらない。
「ちょっと寝よう……」
私は目を瞑った…。
「な〜によ香恵〜! 何してたのぉ?」
学校の、吹奏楽部の部室に着くと同時に、そんな声が耳に飛び込んできた。
「今日九時には来るって言ってたから私も早起きしてきたのにぃー」
「ごめ〜ん、寝坊しちゃった…」
バイトに行ってたとは言わない。約束を破ったとは思われたくないから。
嘘をつくことは悪いことだけど、この場合のような、相手を傷付けることを避けるための嘘ならば、神様も許してくれると、私は勝手に思い込んでいる(そんなものがいればの話だが)。
――少し教室で眠った後、私は大急ぎで学校へ向かった。
園長先生はもうちょっといてほしそうな顔をしていたが、さすがに無理言って来てもらってるんだからと思ったのか、渋々だが帰してくれた。
私はホルンの練習もしたかったのだが、さすがにそんな時間はないようだ。走ってきたのだがもうすぐ三時間目の授業が始まってしまう。昼ご飯は後にして、私は授業に向かう。
とりあえず部室に顔を出すだけ出して、すぐに教室に向かわないといけない。顔を出すのは、部室にひとりひとり表には黒で、裏には青で名前が書いてある名札を壁に掛けてあるのだが、学校に来たらまず名札を表に返さないといけない。出席のチェックである。帰りには、それを裏返し、青の文字を表にするのだ。
「香恵ー、待ってよ、私も行く」
今さっき声を掛けてきた子だ。
彼女の名前は村岡和音。高校からの同級生で、テナーサックスを吹いている。
少しウエーブのかかった長い茶髪が特徴的な彼女の趣味は、某超人気ロボットアニメシリーズのビデオを観ることだ。私も一度借りて観たことがあるが、なんというか、あまりにも現実味がない世界感に呆然としたことを憶えている。
――いや、そんなことはどうでもいい。
和音に呼び止められ、私は彼女と一緒に教室に向かった。
「でも一緒の授業じゃないよね?」
「いいじゃない。どうせ校舎は同じなんだから」
要するに和音は寂しがり屋なのだ。何時も誰かにベッタリ。
――とりわけ私の場合が多いか。それはきっと、高校からの友達だからかな…。
だから、授業が違うのにお互いどこの教室で受講するのかを把握していて、教室が近い友人がいると、その人にベッタリくっついていくのだ。
でも、友人も、みんな彼女のことが好きだからうっとーしいとは思わない。和音が甘えてきたらつい頭を撫でてしまう衝動に駆られるらしい。
「それじゃあねー」
教室の前で私は和音と別れた。
――やっと、静かになった。
正直、彼女の相手は疲れる。みんなは和音のことを可愛がっているようだが、私は疲れるだけだ。とはいえ、私も彼女が嫌いではないのだ…。
和音はあれやこれやと散々喋る上に、会話に脈略がない。
昨日見たドラマの話をしているかと思えば好きなロックバンドの話になり、更に飛んで今日の講義の教師の禿げかかった頭の話になり、笑っていた。
聞いてる方は堪ったもんじゃないが、彼女は私にとって大切な友人であるから、それは本人には言わず、相槌を打って一緒に笑う。
「はあ」
教室の真ん中の方に座ると、私はもう一度溜め息をついた。和音から解放されて、やっと落ち着けた、って心境だ。
大学の講義は、語学以外は大抵自由な席に座れる。勉強する人は前に座り、もっぱら喋る目的の人は後ろに座っている。最近の大学生はそんな連中ばかりだ。大教室を使う授業にははっきり言って出たくないと思いたくなるくらい騒がしい。先生がマイクで喋っているのに、それ以上のボリュームで後ろにいる連中は喋っているから肝心の先生の声が聞き取れないのだ。…というのは、当然前で先生の話を必死に聴いてメモを取っている学生が思っていることだろう。
私は、今日は真ん中だ。
勉強する、というわけでもないが、かと言って喋るわけでもない。
今朝できなかった演奏会でやる曲目の、ホルンのパートの編曲をするためだ。
それには、できることなら前の方で静かに作業をしたいが、余り前の方に座って先生の冷たい視線を浴びることは避けなけなくてはならないし、逆に後ろに座ると、周りが騒がしく、そんな喧騒の中では考えられるような事も考えられない。
曲作りにはイメージが大切だから、集中する必要があるのであった。
私は席に座り、溜め息を一つ突いた後、早速鞄を開け、中から楽譜とペンケースを取り出した…。
「ただいま〜」
気が付くと、目の前に、また、あのチビデーモンなる生き物が立っていた。というか、浮かんでいた。
そうか、そう言えば彼はどこかに何かをしに行ったんだっけか…(それじゃわからない)。その間に私はなぜ死んだのか、それを思い出そうとしていた。
しかし、朝起きてからの出来事を思い出していたのだが、結局死ぬところまで思い出す前に、正気に戻らされた。朝からの出来事を逐一思い出せるほど、この亜空間なるところは静かで、集中できたのである。
「とりあえずー、お姉さん、でかけるよ〜」
間延びした、本当に眠くなりそうな声で彼は言った。
「…え?」
帰ってくるなりいきなり何を言うのか。
まずはどこに行っていたのかを話すべきじゃないのか?
こんな殺風景なところに女の子ひとり放っぽり出しといて…。
「――ねえ、あんたどこ行ってたの?」
ちょっとムカッときた私は、…何やらせっせと鞄に詰め込んでいる彼に訊いて見た。
「え? どこって、閻魔様のところだよ」
手を動かしながら彼は答えた。その言い方はまるでそんなことはどうでもいいでしょとでも言いたげだ。
…って、今何てった? 閻魔様?
「そうだよ〜。死者を管理するのは全部閻魔様の仕事だからね〜」
し、しかし…閻魔様というものが本当にいるとは……(てっきり昔話の中だけかと思ってた…)。
「そ、それで、どこに行くって?」
私が訊くと、彼はよっと、と言いながら鞄を背負い、こう言った。
「どこって、下界だよ。お姉さん、今お友達がどうしてるか気にならない?」
「あ、気になる!」
つい、私はそう答えていた。自分の死んだ理由や閻魔様の話は、もう頭から吹っ飛んでいた…。
to be continued