5:写真

 私はしばらく放心していた。
 青山くんの言う通り、敷石の周りに転がっていた小さな石ころを拾い上げようと身を屈めたが、石には触れているはずなのに、ビクともしない。それは、まったく私の存在を無視し、ただそこにじっと座っているかのようだった。
 なんてことだ。私は、本当にこの世の人間ではなくなってしまったようだ。しつこいようだが、まったく自覚していなかった。どこか頭の隅で、これは夢なんだ、悪い夢なんだ、と思い込もうとしていた。それが、青山とかいうふざけた名前の悪魔の言う通り、私は死んだらしい。
 私はドア横の壁に凭れるように座ったが、凭れることはしなかった。触れているのに触れていないような、あのどこかもどかしい、イヤな感触を味わいたくなかったからだ。絶望に打ちひしがれながらも、それだけはしなかった。今更ジタバタしても仕方がない。もう、既に私は死んでいるのだから。
 それからしばらくの間、私と青山くんはただじっとそこに居た。私はそうやって座り、もうすでに暗くなっていた空を見上げ、青山くんは私から少し離れたところで私に背を向け浮かんでいた。何も話さず、ただじっと、時間が過ぎるのを待っていた。
 思えば、私は生前、というのはおかしいかもしれないが、こんなに物事を考える時間というものを持たなかったように思う。小さい頃は何も考えずひたすら父の教えの下で楽器を練習していた。父が死んで後も、一年ほどは遊んだというよりは喫茶店でひとりボーッと座っていたのだが、それでもすぐにまた楽器の練習を再開した。それから後はもう楽器に、ホルンに没頭した。何も考えず、ただひたすらホルンを吹いていた。
 思えば、私のささやかな二十年という人生の中で、思い出というものはほとんどない。いつもホルンを吹いていたりピアノを弾いていたりと、家の地下室に父と篭っていた記憶しかないのだ。
 それで、プロの音楽家としてデビューしたのなら、まだいい。半生の中で培った実力を発揮し、それが他者によって認められたのなら、これは結果が出たわけだから、苦しかった半生も楽しかったといえるかもしれない。しかし、私はまだデビューすらしていないし、誰にも、肉親や今の吹奏楽部関係の学生以外にはという意味だが、私の演奏を聴かせたことがない。私の実力が認められたのは、プロの音楽家にではなく、私よりも遥かに技量の劣る大学生なのだ。そんな連中に認められても意味がないのが、正直な気持ちだった。
 教えに来てくれるプロの楽団の指揮者の先生は一応認めてくれたが、まだ実力はなく、これからの努力次第だということだった。きっと、父の名前だけで、そう考えたのだろう。あまり期待していなかったのかもしれない。
 「ねえ」
 死んだせいか、風や夜の肌寒さは感じられない。私は無気力な声で青山くんに話しかけた。青山くんには首はなく、こちらを振り向くには体ごとこちらに向けなくてはならない。まるでむち打ち患者のようだ。その場で回れ右をする姿は妙におかしい。と言っても浮かんでいるのでたいした労働ではないと思うが、今の私はそんなことに関心を持つほど心に余裕がない。
 「死んだのがわかったのなら、もういいよ。ここにいても仕方ないもん。帰ろう。地獄でもどこでも行くよ」
 空を見上げたまま私は言った。あの空の向こうには何があるのだろうか…。無限の宇宙空間である。宇宙の歴史は何億年だ。それに比べ地球の、人間の歴史は数万年。さらに、一人の人間の人生は長くて百年か…。ずいぶんちっぽけなものだと思う。その中で、人はせいぜいお金儲けをする。しかし、その人生を賭けて手に入れた地位や名誉はあの世にまでは持って行けない。この世の中でどれだけ贅沢をして生きるか、他人より優位に立つか、それだけに躍起になっている大人は、非常に滑稽に見える。父は音楽に人生を捧げた。そして自分と同じ行き方を私にも教えた。いや、私はその父の人生を強要されたのだ。小さい頃からの英才教育により、私の日常生活の思考能力は断絶され、何も考えられないまま楽器の練習をさせられた。周りにいる子供達とはまったく違う環境で、みんなはよく笑い外を元気に走り回っている間も、私は楽譜を眺めていたりクラシック音楽を聴いていたりした。
 自分はみんなとは違うと思っていた。父が世界的に有名な楽団でホルンの演奏家だったため、周りにいる大人たち、これは当然父の楽団、音楽家仲間だが、近所に住む友達の両親も含む。彼らも私に他の子供たちがしているように遊び回っていいとは言ってくれなかった。だから私は笑う事が少なく、遊ぶという行為も何をどうすれば遊ぶという行為になるのか、そのやり方も知らないのだった。
 大学へ入って少しはハメを外すということも覚えたが、それでも店で音楽がかかっていたりするとそっちに耳が集中してしまう。条件反射のようなものになってしまっていた。
 「ダメだよ。これはオイラの仕事でもあるし、お姉さんに見せなきゃいけないことなんだ」
 青山くんがそう言った事で、私の回想は遮られた。正気に戻る。
 「見せなきゃいけない?」
 私は青山くんにゆっくり視線を移しながら訊いた。
 「仕事だけの理由じゃないの?」
 「違うよ。お姉さんにはこれから起こることを見届ける義務があるんだ」
 義務? 死んだ私に、既にこの世との関わりを絶った私に、何かを見届ける義務があるというのか?
 それは一体何なのか? と、いっちょ前に考えて見てもわかるはずがない。
 「義務って、何なの? 私はもう死んだんでしょ? 関係ないんじゃないの?」
 すると青山くんは、とたんにうんざりするような顔つきになり、
 「言葉で言うのは簡単だよ。でも、それじゃ意味がないんだ。お姉さんが自分の目で確かめなくちゃね」
 義務? どういうことだろう。私はなぜか義務と聞くとそれは強制されるものという意味から、あまりいい印象を受けない。だから、今義務と言われたが、これは、私にとっていいことではないように思えた…。
 しばらくすると、この家の塀の向こうで、というのは隣りの家ではなく表の道路から、足音が聞こえてきた。こちらに向かっているようだが、和音だろうか? 和音ならこの家のドアを開けてくれるが、もしまったく違う人ならばこのまま通り過ぎるだろう。
 果たして、門の前に現れた人は、待ち人の和音その人で、今帰宅してきたところらしかった。
 開け放たれたままの門の中に入り、入った後それをきちんと閉め、玄関に向かって歩いて来る。私はつい勢いよく立ち上がる。しかし、友人である私が目の前にいるにも関わらず、それにはまったく気付かない様子で、さっさと玄関を開け、ただいまと大声で言いながら中に入って行った。ドアにはやはり鍵はかかっていなかったようだ。それでも私が試した時にノブが廻らなかったのは、私がこの世の人間ではなくなってしまったからなのだと改めて思い知らされた。そして、和音はドアの横に座っていた私にまったく気付かずに、自分のあったかい家の中へ入って行ったのだ。故意に無視している様子はなく、ごく自然な様子で、鼻歌を歌いながら私の横を通り過ぎた。これはさすがに堪えた。ドアのノブはまあ何かの細工をして開かない様にできるかもしれないが、あの感情の塊である和音に無視されたとあっては、それも自然に、演技した風ではないのだから、立ち竦み、その場にヘナヘナと膝から折れてしまいそうになった。とはいえ、このチャンスを逃すと次はいつ中に入れるかわからないので、這いずるように私は和音の後についていき、彼女の家に入って行った。
 青山くんは、私の心情がわからないと見えて、そんな這いずってまで歩く私に手を差し伸べることもせず(してほしくもないが)、自分だけはちゃっかりと背中の翼をパタパタと羽ばたかせながら私を飛び越え、土間に着地した。
 和音はドアを閉め、鍵を掛け、さらにチェーンまで締めた。
 靴を脱ぎ、廊下に上がる。少し落ち着いた私は気を取り直し立ち上がると、私もついつい靴を脱ぎそうになった。青山くんに指摘されて気が付いた。空気なんだから靴を脱ぐ必要はないのだ。泥が床につくわけがないし、今身につけているものは脱ぐことができないらしい。だから試しに靴を脱ぐ素振りを見せてみた。
 ――脱げない。まるで靴が私の身体の一部分かの様に感じる。どうしても脱げなかったので、私は諦め、そのまま土間へ上がって行った。その時お邪魔しますと言ってしまったのは内緒にしよう。
 友人の家は結構広い。結構どころかかなりだわ、これは。
 土間を上がると、幅二メートルくらいはある廊下がずっと向こうまで続いていて、色とりどりのペルシャ絨毯が敷き詰められている。左側に、廊下の半分はあろう幅の階段があり、そこにも同じような意匠の絨毯が敷き詰められている。そのまるで靴のまま上がれるのではないかと思うほどの洋風な造りに、私はただあんぐりと口を開けるしかなかった。
 自分の家も広いと思っていたのだが、どうやら世間には豪邸と呼ばれるものが多々あるらしい。うちは父が世界的に有名な音楽家だったからそれなりにお金持ちとは思っていたが、和音の家はそれ以上なのかもしれないと思った。しかし、私は和音の家がどんな商売をしているのかは知らない。和音もそんな話はしなかった。いや、正しくは私に興味がなかっただけかもしれない。今思い返して見ると、私はホルンの練習に打ち込むあまり、友達との会話も、授業やバイト、そして吹奏楽の事しかなかったような気がする。本当に和音のことを友達と呼べるのだろうか。いや、それよりも和音は私のことを友達と思ってくれているのだろうか?
 「ただいまー」
 和音が靴を脱ぐ時に言った。中から、たぶんリビングかダイニングだろう、この洋風の館にはそぐわないのれんを分けて、母親らしい女性が顔を出し、おかえりと娘に言った。
 「着替えてらっしゃい。すぐご飯できますからね」
 「は〜い」
 優しそうな母親だなと思った。その母親の声を和音は駆け足気味に通り過ぎ、階段を上った。私と青山くんも彼女についていくため駆け足になった。しかし、死んだのだから、瞬間移動ができてもいいのではないかと思う。私はもうここには存在していないのだから。てことは、私にはもう時間的空間も存在しないってことだし、そんなものに縛られてわざわざ駆け足で移動するってのもおかしいのではないだろうか? などと階段を上りながら考えた。青山くんは背中の羽根をパタパタさせながら優雅に舞っている…というよりは紙飛行機のようにフラフラ舞っているって感じだけど、ちゃんと私の後ろについてきている。よく考えると青山くんの足は非常に短く、たぶん膝がないので、足を曲げて歩くということができないのではないのだろうか。だから背中に羽根が生えてるんだ、ということに私は今初めて気が付いた。
 螺旋階段、というと円を描いて上がるのを想像してしまうが、ここのはまっすぐ階段を上がると踊り場があり、その後引き返すようにさらに上へ向かっている。まあ、普通の階段ちゃあ普通の階段だが…。
 階段を上りきると、やはり絨毯が敷き詰められた廊下が遥か彼方まで…というのは大げさだが、十メートルほど続いている。その幅は一階と比べてかなり狭く、五十センチといったところか。半分である。廊下の両脇には壁があり、それぞれふたつずつドアがついていた。
 壁にドアがついているということは、この廊下の先には何があるのか、突き当たりはどうなっているのか、気になるといけないから説明しておくと、何の事はない、ただの出窓である。その前には鉢植えが二つ飾られている。ふたつというのは、ちょうどその出窓には鉢植え二つ分のスペースしか空いてないからだ。
 和音は、階段からこの出窓に向かって左の奥のドアを開けた。そこがどうやら和音の部屋らしい。和音がドアを閉める前に私と青山くんは滑り込まなくてはならないため、少し焦り気味で彼女に近づいた。
 「あ、そうだ」
 ドアを開けて、ちょうど部屋に体を乗り入れたと思った瞬間、和音はこちらに引き返した。
 「きゃっ」
 ドアのすぐ後ろにいた私が和音とぶつかり、私は後ろに突き飛ばされたように吹っ飛んだ。いくら和音がこちらに引き返してきたからと言っても、正面からぶつかった程度なのだ。普通ならちょっと後ろに退くくらいなのに、まるで突き飛ばされたかのように私は倒れ、反対側の壁で頭を打った。普通なら和音に向かって文句のひとつも言えるのだが、向こうには私の姿は見えていないし声も聞こえていない。今体が触れたのだが、和音はそれすら感じていない。それどころか鼻歌を歌いながら隣りの部屋のドアを開け、入って行った。
 「大丈夫〜?」
 と天井近くに避難していた青山くんがパタパタと降りてきて言った。
 突き飛ばされたが、痛みはない。倒れて頭を打ったが、それも痛みは感じられない。不思議というより気味が悪い。何度も言うようだが私は本当にこの世界の住人ではないようだ。
 「大丈夫…」
 起き上がりながら私は言った。
 「ぶつかっただけなのに、突き飛ばされたような衝撃…。なんで?」
 「……めんどくさいけど、まあ、今手持ち無沙汰だから教えるよ。お姉さんは今空気のような存在なんだよ? 呼吸もしていなければ空気抵抗もない。衝撃を抑えようとする反動もない。てことは、和音ちゃんとぶつかった時の衝撃が、その力が、そのままの状態ですべてお姉さんの体にぶつかるってことだよ。わかる?」
 「……さっぱり…」
 「……もういい…」
 「そんなこと言わずにさ〜。教えてよ〜。…ね?」
 顔の前で両手を合わせてお願いしてみる。
 すると青山くんは大きく溜め息をつき、口を開きかける。といっても元々彼の口は大きく人間でいう耳の位置まで裂けていて、逆に口を閉じる事ができないようだけど…。
 「…とにかく、生きてる人には触れないことだね」
 しかし彼の口からそれ以上言葉が出ることはなかった。隣りの部屋に入った和音が出てきたからだ。
 どうやら荷物を置いてきたらしい。手ぶらで出てきた。ということは、今入っていた部屋が和音の部屋なのだろうか?
 和音は鼻歌を歌いながら私たちの前を通り過ぎる。私は急いで立ち上がる。衝撃がどうのこうの言っていたが、ぶつかっただけで突き飛ばされるくらい衝撃を受けたのに、もし間違って足でも踏まれたら一体どうなることか!
 そう言えばこんなに緊張したのって久しぶりかも、と考えたが、すぐに和音の後を追わないといけないと気付き、頭を切り替える。
 青山くんがパタパタ飛び、私は和音のすぐ後ろにつく。しかしいつまた退き返すかわからないため私は左右どちらにでもすぐ飛び退けるように構える。もし私が生きてる時にこんなことをやったら、恐らく変質者扱いされてしまうだろう。女性の真後ろで、彼女の後頭部を睨みながら腰を低く構えているのだ。必ず周りの人の注目を浴びること請け合いだ。そう考えると何とも馬鹿らしいが、また突き飛ばされるのを思うと注目されることくらいまだマシだ。それに私の姿は誰にも見られないわけだし、加えて彼女の部屋はすぐそこだ。こうして構えている時間もすぐ終わる。
 和音は最初に開けた部屋のドアを再び開け、中に入った。私と青山くんも素早く身を滑らせる。青山くんに言われたように、和音の体に触れないように注意しながら。
 …理由はよくわからないが、私もまた突き飛ばされたくはない。
 どうやら、今回は何事もなく部屋に入る事ができた。
 その部屋は…なんというのだろう、確かに和音の部屋だろうというのはわかるが…。
 和音と私たちが入った部屋は八畳くらいのフローリングで、ここにも絨毯が敷いてあるが廊下や玄関のように多彩な柄ではなく、灰色一色の普通の絨毯だった。
 いや、私が驚いたのはこの絨毯にではなく(廊下とのギャップがあって少しは驚いたが…)、この部屋に置いてある物だ。
 「衣装部屋…?」
 そう、思わず呟いてしまったが、これはまさしく衣装部屋と呼ぶにふさわしいくらい、洋服で溢れていた。当然ハンガーにかかっているのだが、和音はこんなにも服を持っていたのか…と、私は思わず感嘆の息を洩らした。  そう言えば和音は毎日着ている服が違ったような気がする。私はそんなものに興味がなかったので、和音の服にそれほどの関心も示さなかったが…確か、彼女が着ている服は毎日違ったような気がする。二日連続で同じ服を着ないというのは私も当然そうなのだが、私は一週間で二度同じ服を着ることがないということはなかったように思う。三日にいっぺん、四日にいっぺんは私は同じ服を着て大学に行っていた。なのに、和音は、一度着た服は、その先一週間は着なかったような気がする。
 私は、そのまるで衣装部屋と呼ぶにふさわしい空間を創り出した置物をしばらく見回した。
 本当に色んな服が置いてある。こっちのハンガー掛けにはスカートだけで二十着はあるだろう。こういうとき物に触れないというのが悔しい。一着一着手に取り、どんなスカートなのか品定めができない。私も女の子だ。たまには彼女みたいにお洒落したかったかなと思ったが、今更後の祭である。
 このハンガー掛けにはスカートしか掛けてないが、隣りのハンガー掛けにはズボン、さらに向こうのハンガー掛けにはTシャツが掛けられていた。
 ふと和音に視線を戻すと、彼女は鼻歌をハミングに替えて、尚も歌い続けている。真ん中から両側に引いて開ける形式の衣装棚をひとつ開け、着替えるために服を脱ぎ始めた。どうやらハンガー掛け以外にも、衣装棚まであるらしい。
 ちなみに今彼女が着ている服は、白と紺の横縞模様の長袖Tシャツの上に、半袖の黒い服を着ている。この黒い服は薄くて、ブラウスのようなものだが、生地はおそらく絹だろう。前ボタン式だが、ボタンはひとつも止めていなかった。下はズボンで、ジーパンだが裾を少しめくっているので足首が見えている。靴下は踵までの物を履いているから足首が隠れずに露出している。足首を見せたいためにこういう靴下を履いているのかもしれない、彼女の足首を見ながら私はそう思った。頭には、今日は青いバンダナを巻いている。そうだ、確かに今日は昼ご飯を一緒に食べたから、その時に見たような気がする。
 パタン、という扉が閉まる音が聞こえたので、我に返った。和音の着替えが終わったようで、今の音はあの衣装棚を閉める音だったようだ。
 彼女の今の格好は、上は無地のTシャツで、下はジャージ。ジャージは黒で、脇に白い二本線が入っていた。
 なるほど、家の中ではこういう楽な格好をしているらしい。しかし、先ほどまでのお洒落な服装と、この衣装部屋を見ると、どうも目の前の彼女の格好とはギャップがある気がしてならない。こんなに衣装を持っているのだから、家の中でもお洒落を楽しんでいるのかと思ったが、というのは彼女の部屋を見て、芸能人をイメージしたからなのだが、どうやら家の中では普通の女の子らしい。いや、和音は前にも言った通り、外でもお喋り好きな至って普通の女の子なのだった。
 そのお喋りはなかなか楽しいのだが、たまにうるさく感じる時があり、そんなときはどっか行ってよと思うのだが、それ以外ではクラブでも人気のある明るい女の子なのだ。
 おっと、そんなことはどうでもよかった。
 着替えが終わった和音は、脱いだ服を持って部屋を出る。この時にきちんと着いて行かないと、この部屋に閉じ込められることになる。
 視線を戻すと、ちょうど和音が脱いだ着替えを手に取り、部屋から出て行こうとしていたところだった。青山くんに呼ばれ、私も彼について部屋を出た。
 次に和音は、手に持った先ほど脱いだ服を、洗濯機に放り込むためか、階段を降り、洗面所のある方なのだろう、歩いて行く。
 私と青山くんはずっと和音について行く。こんなところまでわざわざついて行くこともないと思うのだが、しょうがない。青山くんがついて行っているのだから、私としてはついて行かざるを得ない。
 「だってしょうがないじゃな〜い。オイラたちはリビングのドアを開ける事ができないんだから。開けれる人についていくしかないんだよ〜」
 もしかしたら青山くんは私の心が読めるのかもしれない。それとも私は考えてる事がすぐ顔に出てしまうのだろうか?
 ちょうど訊こうと思った時に、青山くんは答えてくれた。なるほど、開けれる人についていくしかない。まさにその通りなのだが、だからといってトイレにまでついてくることないんじゃ…。
 「お姉さん、別に中に入ったわけじゃないんだから、人聞きの悪い事言わないでよ…」
 「いやまあ、そりゃそうなんだけど…なんかさあ、ドアの前でじっと待ってるのもなあ…」
 「じゃあ入った方がよかったの?」
 「ダメ!!」
 慌てたためつい怒鳴る形になたが、なるほど、私の声は誰にも聞こえない。隣りで青山くんが耳を指で塞いでるくらいで、トイレの中の和音は驚かないし、おばさんも何事かと思って出て来ない。
 「なんか私ストーカーしてるような気がしてきた…」
 「ストーカー? 何それ?」
 「……青山くんは知らなくていい」
 「そーゆーこと言うのお姉さんは。オイラはお姉さんに言わなくていいことでも訊かれたら教えてあげてるのにさあ、なんでオイラが訊いた時は教えてくれないのぉ」
 涙を流しながら抗議する青山くん。
 「わ、わかった、ごめん…」
 顔を近づけて訴える青山くんから目を逸らして、私はしぶしぶ頷いた。死の世界への水先案内人のくせにやたらと喜怒哀楽がはっきりしてるのよねえ…。私は泣けないのに、悪魔は鳴けるらしいということがわかったが、別に羨ましいとも思わなかった。
 「ストーカーっていうのはね、自分が好きになった異性または同性に対して、しつこく付きまとう人のことを言うの」
 私は溜め息混じりに教えてあげた。
 「時には相手の嫌がることも平気でやるし、中には相手を殺す人だっているんだから」
 「へぇ〜。…好きって何かな?」
 異性や同性もないのかもしれない、青山くんは不思議そうな顔で私に訊いてきた。しかし、私はまだ人を好きになったことがない。今時の娘にしては少々どころか大いに遅れているのかもしれないが、私はいまだに男の人と付き合ったことがない。
 もてなかったというわけでは決してない、と言えると思う。実際中学の頃から手紙をもらったり、よく遊びに行こうと誘われたことがあった。でも、私は気乗りしなかった。というのは、ずっと父親の許でホルンの練習に明け暮れていたからだ。放課後はどこにも寄らずに家に帰るように教育されていた。休日も一日ホルンを吹いていたくらいだ。と言っても毎日父親に観てもらっていたわけではない。父は一応世界的にも有名なホルンの独奏家で、世界中を演奏して廻っている有名人だったから、家で私が教えてもらったことは一年での間でもそう多くない。しかし、父が見ていない間にどれだけ私のホルンの腕前が上達しているか、それを観るのが父の楽しみのひとつだったらしい。
 「好きかあ…私にもよくわからないんだけどねえ…」
 困った顔で私は言った。正直、好きという感情がよくわからない。友達とはまた違うのだろう? 何か特別な感情らしい。
 「ふ〜ん…不思議な感情なんだねぇ?」
 と青山くんは言った。確かに私も不思議な感情だとは思う。でも、何やら私くらいの年になると、って言ってもまだ二十歳だからね! 中学や高校時代にすでに経験しているはずのものらしいのだが、私は先ほど言ったような理由からそんな経験をするほど余裕のある生活をしていなかった。
 「不思議も不思議。この世の七不思議よ」
 「七不思議?」
 青山くんは目を輝かせて私の顔を見た。
 「い、いや、何でもない…」
 慌てて目を逸らす私。もしかしたら青山くんは好奇心旺盛なのかもしれない。少しでもわからないことがあると、何でもすかさず訊いてくる気がしてならない。
 「何で目を逸らすのかな?」
 と訊かれるだろうとは覚悟していたが、訊かれる事はなかった。トイレから、用を足した和音が出て来たからだ。和音は相変わらず鼻歌を歌いながら私たちの前を通り過ぎ、洗面所へ向かう。私は彼女に触れないように壁に張り付く。断崖絶壁を、壁に背をつけ移動するような、そんなおっかなびっくりなかっこうだった。
 それから私たちは黙って和音を追いかけた。和音は手を洗ってからついでにうがいをし、リビングへ向かう道中私たちは彼女の後を尾けた。
 ガチャッ、どリビングへ入るドアを開け、中に入る。この時さっさと閉められる前に私たちも入らなければならない。心持ち急ぐ。しかし、急ぐ必要はなかった。和音はリビングへのドアを開けっ放しにし、ソファに座ったのだった。
 私はリビングを見回した。初めて見る和音の家。その中。何やらとてもいけないことをしているような気がする。家とはその人の、その家族の世界である。その中に、私は奇妙な生き物と一緒に訪れている。文字通り土足で上がっているのだ。
 目の前に和音がいる。キッチンには、私は会った事がないが和音のお母さんもいる。和音の家族の世界だ。私がいていい世界ではない。
 それなのに部外者の私がここにいるのはおかしいのではないか?
 私は少し居た堪れない気分になった。
 「…青山くん、ここで何するの? 私、早く出て行きたいんだけど…」
 言う時、私はどこも見ていなかった。いや、その言い方は少し違う。私は青山くんも、和音の方も見ているわけではない。しかし、私の目は、リビングの奥にある暖炉を見ていた。そう、ふと、目に止まったのだ。
 正確には暖炉ではなく、その上に置かれている写真立てだ。
 私はその写真に吸い寄せられるように近付いた。写真の中に写っている人を見た。
 「あ、これお姉さんだ」
 横を見ると、何時の間にか青山くんが私の目の高さでプカプカ浮いて、私が見ている写真を横から覗いていた。
 視線を写真に戻す。
 写真には、私と和音が写っていた。
 右に私、左に和音という位置で、肩を組みこちらに笑いかけ、私は右手に持ったホルンを、そして和音は左手に持ったアルトサックスを揃って同じ高さで前に突き出していた。懐かしい、去年の定期演奏会の時控え室で撮った写真だ。
 私はカメラを持っていなかったので写真は撮らなかったが、憶えている。いや、正確には思い出した。和音はこれを撮り、さらにこうして自宅のリビングに飾っていたのか。ちょっぴり感動する。そして、私は何者かに感謝したい気分になった。和音は、私のことを友達と思ってくれていたのだった。
 それから私は後ろのソファにもたれ、テレビを見ている和音を振り返る。
 今彼女はテレビの低俗なバラエティ番組を観て笑っているが、私が死んだことを知っているのだろうか? いや、きっと知らない。
 私は、親友にさよならも言えずに死んでしまったのだ。こんなに近くにいるのに、手を伸ばせば届く距離にいるのに、私はもう親友には触れないし、会話もできない。
 こんなに近くにいるのに、私の声は彼女に届かない。
 泣きたくなった。悲しくなった。
 ありふれた言葉だが、そう言う他言葉が見つからない。
 和音が、私が死んだ事を知った時、どういう表情を見せるのだろうか?
 考えただけで涙が出る。考えてはいけないと思いながらも、なぜか思考は止まらない。
 和音は悲しんでくれる、というのはわかっている。でもそんな親友の悲しむ顔は見たくない。死んでしまってから言うのも何だかおかしいが、本当にそう思う。私は親友を悲しませるのだ。
 明日学校に行けばわかるはずだ。私が死んだということが。お母さんから連絡が行くはずだ。
 今目の前で楽しそうにテレビを見ている和音…。
 でも明日になればこの家の雰囲気も変わるだろう。和音がどんな表情をするのか。
 全然楽しみなんかじゃない。悲しい。
 でも、死んだ私の瞼からは涙は流れなかった。この苦しみ!
 泣きたいのに泣けないこの苦しみを、一体どこにぶつければいいの!?
 「和音ー、ごめん、洗濯物取り込んで〜」
 奥から和音の母親の声が聞こえ、
 「わかった〜」
 と和音が応えた。和音はソファから立ち上がり、名残惜しそうにテレビに視線を釘付けにしながらベランダの窓を開けた。
 「ねえ、青山くん、出よう。私、ここに居たくない」
 私は言ってからスタスタとベランダに近付き、開いている窓からベランダへ出た。青山くんのことは見ていない。どうしてもここには居たくないのだ。
 ベランダというよりは、ここは庭だった。芝生があり、塀の内側、周りには木が植えられていて、緑色の葉っぱが風に揺られてカサカサ音をたてていた。もうすっかり夜だから、辺りは真っ暗である。和音の家の蛍光灯の灯かりだけが、この庭のすべてを照らしていた。
 和音の影が塀に映る。物干し竿から洗濯物を外し、家の中に取り込む。彼女を見なくても影でわかった。見ると、私には影がなかった。
 やはり私は死んでしまったのだ。もう何度確認しただろう。何度も何度も駄目押しを見せ付けられ、気が変になりそうだ。
 私は、気が付くと走っていた。ここがどこかもわからない道を、夜道を、ただがむしゃらに走っていた。しかし、死んだ私は疲れることを知らない。いつまでもいつまでも走っていた気がする。もしかしたら一瞬気が振れただけなのかもしれない。どれだけ一生懸命走っても、どれだけ悲しくても、疲れたり涙が流れることはなかった。悲しいとか、嬉しいという感情はあるのに、なぜそれが体に表れないんだろう。これが死ぬということなのか?
 私は歩きながら考えていた。すると、何時の間にか私の横に青山くんが追い付いて来ていて、私にいつものように、あの仮面のように動かない笑顔の表情を向けた。
 「じゃ、次に行こうか、お姉さん」
 と彼は言った。まだ行く所があるのか? と思った。
 この世界へ降りてきた時と同じように、また目を瞑れというかと思ったが、どうやら歩いて行くようだ。ここから歩いて行けるところに、何があるというのだろうか? 私は今歩いていたい気分だから、別に構わない。


    to be continued
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