二
始業式の朝、新しいクラス発表の紙を見た時、望月は今にも人類が滅亡するかのような、絶望に打ちひしがれたような声で呟いた。
「薫くんと違うクラス……」
今日は、俺と望月、そして綾子の三人で登校した。
俺と望月はそのまま新しい教室に入る。綾子はまず職員室に行き、転入生として後でクラスの方にやってくる。何組かはまだわからないらしい。
今日は聡子ちゃんはいない。新入生は、昨日休みを返上して入学式が行われたので、今日の始業式はお休みである。
昇降口で靴を履き替え、階段のところで俺たちは綾子と別れた。階段を上り、三階まで行く。
俺は二年一組。ちなみに出席番号は十四番。望月は二年三組。出席番号は……聞いてないのでわからないが、まあ前の方ではないことは確かだ。
「じゃあな」
二年一組の前で、俺は望月に言った。
「うん……今日一緒に帰ろうね」
望月はよろめくような足取りで廊下を歩いて行った。
……そんなに俺と一緒のクラスになりたかったのだろうか? あのよろめきは重症かもしれない。
教室に入り適当な席に座ると、俺は改めて教室内を目で眺めた。
既に何人か来ていて、おしゃべりをしたりして時を過ごしている。中には耳にヘッドホンをして、机に伏せているやる気のないやつもいたが、とにかく、前のクラスメートはいないようだった。
つまんない一年になりそうだな、と思ったところ、不意に後ろからポンと肩を叩かれ、
「よ、真田。また同じクラスだな」
振り向くと、肩まで伸びた髪がうっとーしい、にやにやした顔の吉田光が立っていた。
「……なんだ、またお前と一緒なのかよ」
うんざりした顔で俺が言うと、
「あ、そういうこと言うの? 俺たち親友だろ」
「誰がお前なんかと親友なんだよ」
吉田は、終了式にも登場したが、何の説明もしていなかったな。ま、する必要もないんだが……。
吉田光。こいつは高校に入ってからの俺の知り合いで(友達ではない)、軽音部に所属するロックンローラーを自認する男。こいつの長髪もそれが原因だ。だから決してむさくるしい男ではないのだが、でもやっぱり見ていて暑いのは変わらない。
「なんだなんだ、前と同じクラスだったのはお前だけか?」
俺が言うと、
「いや、あそこを見ろ。穴山さんも一緒だぞ」
ん? 俺は吉田が指差したところを見た。そこに、窓に肘をつき、外を眺めている女生徒の姿があった。
穴山さんだ。終了式の帰り、廊下でぶつかりそうになった。彼女に話し掛けたのは後にも先にもあの時一回きりだ。
そうかそうか。なるほど。穴山さんも同じクラスなのか。だったら、今年はもう少し喋ってもいいかな。せっかく二年も連続で同じクラスになってて、一度しか喋ってないなんてのは寂し過ぎるからな。
チャイムが鳴り、新しい担任が入ってくる。結局、俺の知っている顔はふたりだけのようだった。
「んじゃあ始業式あるから、廊下に並べ。出席番号順にな」
眠たそうな担任の声がして、俺たちはのろのろと廊下に並び、揃ってのろのろと体育館に向かった。
終わり、教室に戻ってきた俺たちの後、しばらく、恐らく三十分ほどだったろう、経ってから担任が入ってきた。後ろから、茶髪の美女がついてきた。
「ええ、転校生を紹介する」
担任が口を開いた瞬間、男どもの地響きのような歓声が起こった。
めちゃくちゃ可愛いっ!! という声である。しかし、
「カオちゃんっ?」
という、転校生の声で、それも複雑な声色に変わった。
「ここカオちゃんのクラスなんやっ、よかった!」
モデルのようなスタイル。男殺しとも言えるその笑顔を俺に向けた。
綾子だった。俺の従姉弟の。
「おい、どういうことだ? お前、あの子知ってんのかよ」
と、後ろに座っている吉田が俺に耳打ちした(座っている場所は、出席番号順ではない。自由なのだった)。他の男たちも俺に注目する。その視線は、微妙に敵意を感じさせるものだった。
「ああ。俺の従姉弟だ」
「従姉弟ぉっ? お前には望月さんがいるだろおっ、贅沢過ぎんだよお前はあっ!」
吉田が訳のわからないことを口走った。何が贅沢なんだ?
なんだ、従姉弟か、という雰囲気が教室中に漂った。これは、少し敵意が和らいだという証明だった。
このクラスになって二週間ほど経った頃、春の遠足などというものが催されていることに気が付いた。
その頃には、俺と綾子が一緒に住んでいるということも周知の事実になっており、冷やかされることもなくなっていたが、綾子の人気はものすごいものになっていた。
綾子は、誰彼ともなく話し掛ける女の子だ。クラスの内外問わず、用があってもなくても、誰にでも話し掛ける。底抜けに明るい笑顔と、あっけらかんな関西人の性格が彼女の魅力となり、綾子は、学年中に知れ渡る人気者、アイドルと化してしまった。
女の子にも人気がある。まずは、そのスタイルと美貌。それを鼻にかけることもなく、ひょうきんな性格。人を笑わせるのが得意な、お笑い芸人ではなくアイドルと化したのだ。
特に、ここが俺にはよくわからないのだが、綾子は穴山愛美と仲がいい。俺は一度しか喋っていないから彼女の性格はわかっていない。イメージ的にはおとなしい、無口な少女である。だが、綾子が言うには、
“愛美は(すでに名前で呼び合う仲だと言う)無口やけど、熱い魂を持った熱血少女やねんで”
とのこと。結局俺はあれから穴山さんと話す機会が一度も訪れていないので、綾子の見方が正しいのかどうか、確かめられずにいた。
そう言えば、俺と綾子が同じクラスになったことで、望月はさらに落ち込んでいるようだった。だから朝と放課後、俺はなるべく望月と一緒にいてやることにしている。
それがあるから、というわけでもないのだが、学年の春の遠足の時、同じ場所に行けたらいいな、というような話をした覚えがある。クラスによって遠足の場所が違うのだ。と言っても観光名所は少ないから、かぶる可能性も決して低くはない。その可能性に賭けてみることにしたのであった。
で、本日。四月十八日。ホームルームで遠足で行く場所と、班を決めた。班は、仲良しこよしで一緒になっていいとのことだったので、俺は渋々吉田のボケと一緒になることにし、女子は、まあ喋る気軽さということで綾子を選んだ。綾子は、穴山さんと組んでいたから、必然的に穴山さんとも同じ班になったということになる。ちなみにここでも綾子を巡って抗争が起こりつつあったのだが、綾子がまだ慣れてないから俺と一緒の班がいいと言ってくれたので、男たちの戦う勇姿は見られなかった。
「そう言えば由利さん以外は、一年の時も同じクラスだったな」
思い出したように吉田が言った。
「あそうなん? カオちゃんそんなこと一言も言わへんかったやん」
「え? 俺? 俺が何を言わなかったって?」
「カオちゃんが愛美と同じクラスだったって。ウチ聞いてへんで」
「なんでそんなことお前に話さなきゃいけねえんだ? 穴山さんだって言ってないんだろ? 俺が言う必要もねえじゃねえか」
なあ、という感じで穴山さんを見る。これでやっと穴山さんと会話ができるな、と思っての策略だったのだが、穴山さんは俺たちの会話を聞いていないようで、黒板の方を見つめていた。
「愛美、何見てんのん?」
綾子が訊くと、
「遠足の場所決まったようだよ」
と穴山さんは答えた。想像していたよりもしっかりした声だった。
「何々、動物公園?」
綾子が額に手をかざし、声に出して読んだ。どこぞの有名な動物公園のことだ。動物園と、自然公園が一緒になったような場所で、かなりの敷地面積を誇っている。そして動物の種類も豊富で、有名な休日のデートスポットのひとつに上げられている。
俺の知らないところで、どうやら遠足場所が決まっていた。
「真田くんたちしゃべってたからだよ」
穴山さんが言った。なるほど。その間に決まったのか。
やっと、一年と二週間目にしてやっと、俺は穴山さんと言葉を交わした。俺が一方的に話すのではなく、穴山さんの声が俺に向けられた、初めての瞬間だった。
「え、薫くんのクラス下野動物園に行くの?」
その日の帰り道、望月が嬉しそうな声で俺を見上げた。
「ああ。もしかして、お前んとこもそうなのか?」
「うんっ! 向こうで会えるねっ」
「ああ。クラスは違うけど、班ぐるみで一緒に歩けばいいだろう」
「え…でも、私だけのためにみんな一緒に歩いてくれるかなあ……」
ふ、そう言うと思った俺は軽く笑い、
「大丈夫。俺の班には学年のアイドル、由利綾子がいるんだからな。あいつと一緒に歩けると言ったら、他のクラスのやつでも喜んでついてきてくれるって」
「あ、なるほど……」
「それに、俺のほかのメンバーは、吉田に穴山さんだ。去年一緒だったから、お前も気兼ねしなくて済むだろう?」
すると望月はぱっと花が咲いたように笑顔を咲かせ、
「ありがとう、薫くんっ」
と言った。
そして、遠足当日。学校を離れるということで、今日はみんな私服で駅に集まった。ここから電車で向かい、動物園を散策する。
ところで、吉田のファッションを見たとき、俺は思わず引いてしまった。やつは、銀のアクセをチャラチャラ鳴らし、皮ジャンにジーパン、ブーツという出で立ちで、俺の度肝を抜いた。
「これぞロックンローラーの真髄よ」
などと吉田は自分に陶酔し切っているが、周りは皆引いていたのは確かだ。
綾子だけには、それでもバカウケしていたが、同じ班で一緒に行動しなければならないと気が付いた時には、さすがにその笑顔を引き攣らせていた。
そんなかっこうで動物園来んなよなー。盛り下げてくれるぜまったく。
動物園に着いた。午前中は自然公園の方で花見をしたりして過ごし、昼食後に動物園に入るとのこと。
てなわけで、俺たちは自然公園に入った。
桜が満開だった。大きな木に、いっぱいの桜色の花びら。広い敷地内には数百本の桜の木が植えられているとの説明を聞いた。ある一角のエリア内でのみ、俺たちは班別の自由行動が許された。
俺たちはそれぞれ持参のシートを敷き、ここは俺たちの班のテリトリーだということを強調し、腰を落ち着けた。綾子は、敷物を持ってきていなかった。というのも、俺の家には俺が小さい頃から使っているシートしかないからだが、綾子は穴山さんの敷物と、俺の敷物の中間に座る。
そうすると、なぜか吉田だけが遠くにいるように感じられて、なかなか俺は気分がよかった。
「花見かあ……酒でもあればもっと楽しいのになあ」
俺たちを覆うように立っている大きな桜の木を見上げながら、俺は小さく呟いた。
「あはははっ、気持ちはわかるで〜ウチもそうやし〜」
隣りで綾子が笑った。その向こうで、
「高校生がお酒飲んじゃだめだよ」
穴山さんが目を丸くして言う。
真面目な娘だな。俺はそう思った。
少し開けた空間が目の前にあり、他のクラスメートはフリスビーやキャッチボールをして遊んでいた。女の子連中は、皆決まったように木の下に腰を降ろし、桜やそんな男子生徒たちを眺めて賑わっていた。
「よっしゃ。ウチも遊んでこよ」
言うと綾子は立ち上がり、広場でフリスビーをして遊んでいる連中の輪に混ざって行った。
ここには、俺と穴山さんだけが取り残されていた。吉田は吉田で、あの恥ずかしいかっこうのままどこかへブラリと出かけて行った。
「なあ。穴山さんて、家どこらへんなんだい?」
俺が唐突に訊くと、体育座りをして親友を眺めている穴山さんは、びっくりしたような顔で俺を見、
「どうしてそんなこと訊くの?」
と言った。
「いや、別にこれといった理由はないけど……俺たち、去年も同じクラスだったけど、一度も喋ったことなかったじゃん? だから、穴山さんてどんな人なのかなあと思って」
ちょっと苦しい言い訳をしたせいか、穴山さんはじっと俺の顔を無表情のまま見ているだけだった。何か頭の中で必死に考えているように思えた。
結局穴山さんは何も言わず、何事もなかったかのように視線を綾子に戻した。
何だ? 俺がナンパしたと思ってるのか? 違うのに……。
「そうだ」
と、しばらく経ってから穴山さんが口を開いた。ちょうど、俺はここにいるのも辛くなってきた頃で、あのフリスビーの輪の中に混ぜてもらおうかなあと考えていた時だった。
「真田くんて、筧聡子ちゃん知ってるんだよね?」
何? 聡子ちゃん? そりゃ知ってるぞ。でも、なんで聡子ちゃんのことを穴山さんが知ってるんだ?
「知ってるかどうかは知らないけど、あたし、吹奏楽部なんだよ。今年、筧さんが入部してきて、話してる内に真田くんの名前があの子の口から飛び出してきたの」
穴山さんは俺の顔に視線を向け、
「真田くんてモテるんだね。望月さんや綾子だけじゃなく、年下の女の子にも」
いや、付き合いが長いというだけで、それでモテるということにはならないんじゃないか? 望月にしろ聡子ちゃんにしろ、性を感じる前からの知り合いだし、綾子に至っては血の繋がりがあるわけだし。
だから、それは違うと穴山さんに言った。
「そうなんだ? でも、筧さん、真田くんがいるからこの学校に来たんだって言ってたよ。筧さんはお兄ちゃんて呼び方してたけど」
何っ!? それは初耳だな。通学に便利だから来たんじゃないのか? 俺はそうだったぞ。
「筧さんが言うには、真田くんは優しくて、頭がよくて、頼りになるお兄ちゃんらしいよ」
悪戯っぽい顔で穴山さんが笑う。
「どっちにしろ、聡子ちゃんの好きは、お兄ちゃんとして好きってことなんだろう? 俺を男として好きとは言ってないんだろ?」
「それはそうだけど……」
そこで綾子がダッシュでやってきて、俺と穴山さんの腕を引っ張りフリスビーの輪の中に連れ込んだことにより、俺と穴山さんの会話は途切れてしまった。その上、穴山さんはその輪の中には参加せず、俺だけが引っ張られるままに木の下を離れたのだった。
しかし、それがどうかしたのだろうか? 聡子ちゃんの話がしたかっただけなのだろうか? 俺が聡子ちゃんに好かれてるということを教えたかっただけなのだろうか? どうも、穴山さんの考えていることがわからない。
昼食を食べ、動物園に入った俺たちの班は、動物を見るよりも先に、望月のクラスの望月の班を探した。
ちなみに俺の昼食は、綾子の手作り弁当で、なかなかうまかった。途中何度か吉田が伸ばしてきた箸から護らねばならなかったが、それでもおいしく、楽しい昼食の団欒を俺と綾子と穴山さんの三人は過ごした。
と言っても、穴山さんは俺とは会話をせず、綾子が言った言葉に対してだけ反応を示しただけなのだが。
何でだよ? 俺嫌われてんのか?
「そう言えば、望月さんたちのクラスは、何時から来てるんだろ?」
吉田が言った。
「そうだな。まだ来てないのかもしれないな。どうしよ? 入り口で待ってるか?」
「え〜。それはイヤやなあ。せっかく動物園来たのに周らずに入り口でじっとしとくんて〜」
綾子がぶーぶー言った。確かにそれも一理ある。
「しょうがねえ。歩きながら探そうか」
ということで、結局園内を、動物を見回りながら、望月の姿を探すことになった。
と、一番最初の鳥の檻の前で、向こうからやってくる高校生の集団があった。
「あれ、ふみちゃんちゃう?」
綾子が言って、手を振った。望月はそれに気付き、こちらにぱたぱたと駆け寄ってきた。
「薫くん〜。やっと見つけたよ〜どこ行ってたの〜」
泣きそうな顔だった。
「いや、俺らは午前中横の公園にいて、今こっちに入ってきたんだ」
「そうだったの? 私たちはもう帰るんだよー? 一緒に歩きたかったのに……」
「何っ? お前のクラスは朝から見に来てたのかっ?」
俺が望月と喋っている間、望月の班の連中は綾子とおしゃべりをしていた。
「でもよかったよぉ。綾子ちゃんと会えるっていうのをみんなに言ってなかったから」
そっちをちらっと見てから望月が言った。
「そうか。それはよかった。もし言ってたら、お前ぶーぶー文句言われてただろうからな」
そうならないでよかったと、俺は本気で思い、望月の肩をぽんぽんと叩いた。
「あそうだ。お前ら解散するんなら、お前だけ残って俺たちと一緒に周らねえか?」
俺が言うと、望月は泣き出しそうな顔だったのが打って変わり、この上ないほど目を細め、こう言った。
「そうだねっ! そうするっ!」
その声は最近俺が聞いた中では最も大きく、一番喜びに満ちているような気がした。
時間もたっぷりある。俺たち四人の班に望月が加わり、楽しく園内を周ることができる。
途中、何度も写真を撮った。猿の檻の前では、俺と吉田と綾子の三人で猿のマネをしながら。蛇の前では望月はおっかなびっくりした表情だった。屋内の魚の間ではひとりずつ。動物だけの写真ももちろんたくさん撮った。
俺たちは、みなそれぞれ笑顔を見せていた。
高校時代の思い出として、長く俺たちの記憶に残ることだろう。楽しく、充実した一日だった。
普段から明るい綾子は元より。普段静かな穴山さんも、今日飛び入り参加の望月も、吉田はどうでもいいが、みんなが何かから解放されたように大声ではしゃいだ。
まるでこれが、ここに訪れる最後のチャンスであるかのように。
しかしそれは考え過ぎで、本当はいつでも訪問しても構わないのだということを、実はみんな知っているのだ。たった二年後に訪れるひとつの転機が、まるで人生を左右するかのようにおとなたちは言う。
俺たちはまだ十六歳なのだ。人生はまだまだ長い。楽しむということを忘れては、人は何のために生きるのか、わからないではないか。
今日、溢れるばかりのみんなの笑顔を見て、俺はそんな風に思った。
to be continued