四

 熱海から自宅に帰り、既に一ヶ月が過ぎようとしていた。もう、夏休みも終わりである。来週には、二学期が始まるのだった。
 近頃、俺は溜まった宿題に追われる毎日を過ごしている。まだ、半分も終わっていないので、結構必死である。いざというときは、望月のノートを見せてもらうつもりではいるが、できればひとりで終わらせたい。
 それでなくても、望月には頭の上がらない俺なのだ。
 そんなある朝、目が覚めた俺は、廊下に出ると、困った顔でうろうろしている綾子の姿を見掛けた。いや、目に付いた。狭い廊下だ。見るなという方が無理なのであった。
 「綾子、何うろうろしてんだ?」
 「あ。カオちゃん、おはよう」
 顔を上げたと思ったら、すぐに床に目を落とし(眼球を落としたわけではない。それでは目玉の親父になってしまう)、俺のことなど眼中にないかのように、再びうろうろを始めた。
 「そこをうろつくのはいいが、俺が通ってからにしてくれねえか?」
 「あ。ごめん」
 俯いたまま、綾子は端に寄った。一体何を悩んでいるのだろうか?
 俺は、綾子の困ったような横顔を横目に見ながら、階段を降りた。
 降り立ったところへ、
 「カオちゃんっ!!」
 ドドド、と、地響きのようなものを立てて、綾子が飛ぶように降りてきた。その勢いで突き飛ばされそうな気がしたので、俺は階段の真下より、一歩右に避けて待った。
 「なあに慌ててんだ? 静かに降りなきゃ危ねえだろ」
 自分だけ逃げておいてよく言う。
 「ねえカオちゃん、今晩暇?」
 他のことは耳に入らないらしい。俺の言葉を無視し、綾子は俺の肩をがっしり掴んで凄んだ。
 科白の内容はたいしたことがないのだが、そんな必死の形相で訊かれると、つい即答は控えてしまう。
 「何言ってんだ? 何か、あったのか?」
 怪訝そうな表情の俺を見て、綾子は我に返ったようだった。ふと、いつもの顔になり、
 「あ、そっか……」
 「とりあえず、どこに何をしに行くのか、それを教えてくんねえか」
 「あんなあ、吉田くんおるやろ? あの人な、バンドやってるって知ってる?」
 俺は頷いた。あいつは自分で生粋のロックンローラーだと言っている。あの鬱陶しい長髪も、そのためのようなのだ。
 「今晩ライブあるから、観に来てくれって頼まれてんよ」
 ふーん。
 「お前に観て欲しいんじゃねえの?」
 確か、あいつは綾子に惚れているはずだ。ま、他の男連中にもこいつに惚れてるやつは大勢いるだろうが……。
 すると綾子は、見るからにうんざりしたような顔になり、
 「ウチなあ、あの人好きちゃうねん。端から見てるとおもろいし、ひょうきんでええ奴やってのはわかるんやけどなぁ」
 「鬱陶しいんだろう? わかる。俺もあいつは暑苦しいと思ってる」
 ちょっと複雑な顔を綾子はした。あれ? 違ったのかな。
 「今晩付き合ってくれへん?」
 綾子が手を合わせて俺を拝んだ。
 綾子に手を合わさせて拝ませるとは、この構図をクラスの連中に見せたらどう言うだろうか? きっと俺は半殺しの目に遭うだろう。
 「結局、吉田のバンドを観ることになるんだよな? あいつ、何を担当してるんだっけ」
 「ギターって言っとった。お願いやからカオちゃんっ、一緒に行って」
 しかし俺は、せっかくの休みだってのにわざわざ吉田の姿を拝見しに行きたくはない。
 「申し訳ありやせんが、あっしには関わりのねえことでござんして……」
 俺は冷たい声で言う。
 「ごめんなすって」
 と、紋次郎さんの真似をして頭をちょいと下げる。すぐにトイレへ向かった。実は起きたてで、トイレにも行っていなかったのだ。
 しかし、綾子は何も言わなかった。
 おかしい。いつもなら時代掛かった言い方に突っ込みが入るのに。
 振り向くと、綾子は泣きそうな顔で床を睨みつけていた。唇を噛んでいる。よっぽど、行きたくないらしい。
 「わかったよ。付き合ってやる」
 体を綾子に向け、俺は言った。ほとんど、投げやりな口調だったに違いない。それは、自覚していた。
 しかし、綾子には口調など関係なかったのだろう。俺の顔を見上げた綾子は、満面の笑みを浮かべ、俺に抱き着いてきたのだった。
 「ありがとうカオちゃんっ!!」
 俺の頬に頬を摺り寄せる綾子。よっぽど嬉しかったのか、それともよっぽど吉田のライブに行きたくなかったのか……。
 「その代わり、俺耳栓持ってくぞ」
 照れ隠しにそんなことを言って見たりしたが、綾子には聞こえていないようで、何度も何度もありがとうを繰り返していた……。

 「なんじゃそりゃあっ」
 部屋から出てきた綾子を見て、俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
 今の時刻は、十六時を五分ばかり過ぎたところ。十八時から開演するらしいので、これから出掛けようというところなのであった。
 先に準備が終わった俺が、玄関で待っていると、ようやく準備の整った綾子が降りてきたのであった。
 その服装を見て、思わずなんじゃそりゃと、言ってしまったのである。
 「え、何? どっかおかしい?」
 綾子は首を傾げる。
 「お前……これからライブを観に行くんだろ?」
 なのに、フードの付いただぼだぼのトレーナー。下は、ハーフパンツ。まるで、これからジョギングでも始めそうな服装なのだった。
 「そうやで。ま、何があるかわからんし」
 と、綾子は意味不明のことを言った。
 「野外でやんのか?」
 駅に向かいながら、俺は訊いた。綾子は、やはりスニーカーを履いている。
 「ううん。ライブハウスやって」
 「ふうん。他のメンバーって、俺ら知らないメンツなんだろ?」
 「ウチは知らんよ」
 「よく行く気になったな。そもそも、何で行くんだ? 断りゃよかったんじゃねえの?」
 「咄嗟に断る理由が出てけーへんかってん」
 「………」
 「あ、ごめんな、でも嫌々行くわけちゃうで。ライブハウスって、ウチ行った事ないし、一度は行ってみたい思てたとこやねん」
 何か嘘っぽい。しかし、嘘と決めつける理由もないのだった。
 「まあ、ライブハウスって結構殺伐としてたりするらしいからな。俺が当面のボディガードの役目にはなれるだろう」
 「殺伐としてるんは、ロックよりもヘヴィメタやと思うで。アンチメシアなバンドとか」
 「へえ。行ったことない割に詳しいんだな」
 「そら、行って見たい思てたから話くらいは聞いとるで」
 しばらく沈黙が続き、俺が口を開いた。
 「お前、彼氏いねえのか?」
 「……は?」
 綾子はぽかんと口を空けて俺を見る。
 「いや、お前ってよくわかんねえからよ。誰とでも仲良くするじゃん? 好きな男は果たしているのだろうか、ってな、気になったんだ」
 「まあ、おらんこともないねんけど……」
 「へえ。誰? 俺の知ってるやつ?」
 俺がぐぐっと顔を近付けた。好奇心に満ちた笑顔、である。
 「な、内緒」
 綾子は顔を背けた。柄にもなく照れてやがる。本当にそいつに惚れているようだ。
 「そんなことよりカオちゃんは?」
 「ん?」
 「カオちゃんは好きな娘おらんの? ふみちゃんか、聡子ちゃんか、どっちかを狙っとるって思てんねんけど」
 俺は目を丸くした。
 「なんで? そんな風に見えるのか?」
 まさに青天の霹靂である。俺にはそんなつもりはない。どうしてそんな風に思ったのか、それが知りたい。
 しかし、綾子の方も目を丸くしていた。
 「女の直感やってんけど、ちゃうんかいな」
 その後、俺たちは電車に乗り、七駅ほど揺られた駅で降りた。
 「ずいぶん田舎に来たなあ」
 駅の建物から出た俺たちは、目的のライブハウスへと向かった。俺の印象としては、この町並みは意外にも田舎っぽかった。少なくとも、都会のような煌びやかな印象はない。どちらかと言えば、最盛期を過ぎて、衰退の始まった町とでも言おうか、そういう、寂れた哀愁のようなものが漂っている町並みだった。
 ライブハウスは、駅からそれほど離れていないところにあった。
 一階は楽器屋で、地下がライブハウスになっているようだ。おそらく、楽器屋の経営者とライブハウスの経営者は同じなのであろう。
 店の前に、すでに十何人かの若者たちが屯っている。皆、今日の吉田のバンドの客なのかもしれない。もしそうなら、驚きだ。あいつでも、人気はあるんだなと思った。
 女の子は皆、化粧をして、派手なかっこうをしている。中には、中学生らしき女の子のグループもあった。
 綾子のように、ジョギングの最中に立ち寄ったみたいな印象の奴はひとりもいなかった。まあ、当たり前かもしれないが。
 しかし、綾子は目立っていた。ロックのライブにそんなかっこうできているから、という悪い意味ではない。
 その辺のアイドルよりも、まずは顔がいい。スタイルも、モデル並みだ。明るく、表情豊かでもある。
 化粧をしていなくても、これだけ目立つのである。他の女の子連中は、目一杯めかし込んできているに違いない。それでも、綾子の美貌の足元にも遠く及ばないのだった。というのは、俺の私見だが。
 ひょっとすると、綾子も今日ステージに立つのではないか、という噂も彼らの周りを飛び交った。しかし、綾子にそんなつもりがあるはずもないのだった。
 地下に下り、ライブハウスの中に入った。
 全部、立ち見だった。
 広くはない。せいぜい、五十人入るくらいだろう。規模が小さい。しかし、無名のアマチュアなのだから仕方がない。
 十八時になった。ステージに照明が入り、スピーカーから音楽が流れる。
 俺と綾子は、向かって右側の真ん中、前から三列目に突っ立った。客の入りは、上々だろう。びっしりと詰まっている。
 メンバーが、姿を現した。歓声が湧く。
 袖の向かって右から、ギターとベースを肩からぶら下げたふたりの男が、向かって左から、もうひとりのギタリストと何も持たない者とが現れた。何も持たない男は、ステージ上に設置されているキーボードの前に立った。右側から現れたギタリストが、吉田だった。
 ステージの奥から、ドラムセットが流れてきた。そこに、ドラムスの男が座っている。
 ボーカル以外が、揃った。
 メンバーは、もっと歓声を上げろとジェスチャーで煽る。一気に、歓声が膨れ上がる。
 俺は耳栓を取り出し、両耳に嵌めた。
 ボーカルが現れる。そして、こけた。どっと笑いが起こる。どうやら、そういうキャラで人気を集めたらしい。
 もしかすると、客は皆メンバーのお友達連中なのかもしれない、と思った。あまりにも客がいなかったら引くから、というんで、友達にチケットを捌き回ったのかもしれない。
 演奏が始まった。
 それからの出来事は、省かせていただく。はっきり言って、俺は彼らに興味がないのである。
 一応、綾子の手前、他のオーディエンスの手前、目はステージに向けてはいたが。
 耳栓をしていても、やはり相手はアンプやマイクで音を増幅させているだけのことはある。ほとんど、耳栓の役目を果たしていなかった。
 彼らは、コピーバンドだった。既存のロックバンドの歌を、コピーして演奏しているのだった。
 コピバンのすべてを否定するわけではないが、オリジナルの曲も何曲かは入れてライブをするべきではないのかと、俺は思っている。
 真似だけでも、大変な練習を重ねるのだろう。しかし、人様の前で演奏するからには、人の真似事だけを見せても意味がないのである。だって、本家本元の方が上手いのは火を見るより明らかなのだから。
 だから、そこにオリジナルの歌を挿入するのである。それだけで、印象が違う。
 ライブが終わったのは、午後の九時過ぎだった。三時間も続いたというのは、俺には驚きだった。いくらコピーでも、そんなに完璧にものにしているのかと、舌を巻いたのだ。しかし、途中、たまにとちることもあった。
 やっとのことで外に出ると、メンバーが出てきていて、その周りを観客たちが囲んでわいわいやっていた。
 「ちょっと、声掛けてから帰ろう」
 綾子が言ったので、俺もついていくことにした。が、人垣に身を隠し、吉田とは言葉を交わすつもりはなかった。
 「おお、由利さんっ、来てくれたのかあ、ありがとうっ」
 吉田が嬉しそうに言ったので、奴の周りにいたファンは、一斉に綾子を見た。
 吉田は、無事にライブが終わって解放したのか、かなり上機嫌だった。綾子が適当にお世辞を並べて、帰ろうとすると、
 「これから打ち上げがあるんだ。由利さんも来ない?」
 「いや、ウチ門限あるから、もう急いで帰らなあかんねん」
 そんなもんは家にはない。
 「あ、そう? じゃ、ばいばいっ、また学校で会おうね」
 吉田は綾子に手を振った。
 「お待たせ、早よ帰ろ」
 俺に追いついた綾子が言った。並んで歩き出す。
 「お腹減ったな。飯食って帰ろうか」
 綾子は、目を輝かせてええよ、と言った。
 駅へ向かう途中には、手頃なレストランや、定食屋、洋食屋といった店はなかった。ライブハウスへの道程に、なかっただけかもしれないが、俺と綾子は、少し駅からは離れるが、国道沿いのレストランへ入った。全国にチェーンを持つ、大手のファミレスである。
 禁煙席に腰を落ち着け、メニューを受け取った。テーブル席に、俺と綾子は向かい合って座る。席は、八割方埋まっていた。
 俺はハンバーグとエビフライの和風セットにし、綾子は百五十グラムの牛ヒレステーキを和風セットで注文した。
 「ライブはどうだったんだ?」
 「うーん……。ま、あんなもんちゃう?」
 綾子は、あまり楽しくなかったようだ。
 「いや、そういうわけちゃうで。でも、バンドよりもコントの方に力が入ってるような気がすんねん」
 「あ。それは俺も思った。曲はよくとちってたけど、コントは台詞とか忘れてなかったしな」
 「やんなあ。コントはおもろかってん」
 吉田のバンドは、なぜか五分ほどのミニコントを、曲の合間に何度かやった。バンドをやるやつらがコントもやってみせる。これは画期的なアイデアではないかと、ボーカルは説明していたが、目指すはプロの音楽家だろう。曲をとちっといてコントを成功させてどうする。俺は思ったものだった。
 「いつも思うけど、お前って結構食うよな。の割りにスタイルいいんだよな」
 「え? でも、ウチその分動いてるで。よく食べてよく運動する。で、ストレスを溜めない。それがウチ流の健康法やねん」
 「へえ、お前でもストレス溜まるのか?」
 「カオちゃん、ウチのことただの能天気娘やと思てへん?」
 うっ。
 「失礼やなあ。これでも色々と悩みあんねんで」
 「それは、失礼致しやした……」
 オーダーがオーダーだったので、なかなか運ばれてこなかった。来ると、すぐにいただきますと言って、ふたりで一緒に食べ始めた。
 「ごっそうさん」
 俺が言うと、まだ食べ終わっていない綾子が、
 「そう言えばカオちゃんて、必ず最後の一口って御飯やんな」
 「は?」
 「ごちそうさまを言う直前に食べるもんって、絶対御飯やんな。御飯を最後に食べて、いつもごちそうさん言うやん」
 「ああ。……よく観てるな」
 苦笑するしかない。
 そういう証拠というか、科学的に証明されているのかはわからないのだが、俺は米が口の中の匂いを取ってくれると思い込んでいる。それで、俺は最後の一口は御飯だと決めているのだった。
 しかし、ほんとによく観ているな……。
 「お弁当のときもそうやし、晩御飯もそうやもん。朝御飯はトーストやからちゃうけど」
 ………。
 望月も相当だが、綾子もよく人を観察している。感心するのを通り越して、末恐ろしい感じもする。
 「ごちそうさまでした」
 綾子は言って、食器をひとつに重ねた。偉い。
 「食後のデザートでも食うか?」
 「うん、アイス食べたい。けど、もうちょい待ってな、今お腹いっぱいやねん」
 舌を出して笑うと、綾子は自分のお腹を叩いた。
 十分ほど話し、デザートを食べ終わった俺たちは、店を出た。
 駅に向かって歩き、電車に乗る。終電に、ぎりぎりとまでは言わないが、間に合った。時刻は既に、二十三時になっていた。
 電車を降りる。ここから、家までは走って三十分。当然、歩くともっとかかる。五十分くらいだろうか。すると、もう午前〇時である。
 まだ夏休み中だからいいのだが、お巡りさんに声をかけられたら困るな、と、俺はぼんやりと考えていた。親は、心配していないだろう。綾子とライブを観に行くことは、書置きしておいた。遅くなることも、わかっているだろう。
 「カオちゃん」
 横で鼻歌をハミングしていた綾子が、不意に口を開いた。
 「お、おいっ」
 綾子は俺ににっこり笑って見せると、俺の右肘に左腕を絡めてきた。
 「止めろって、暑いんだから……」
 「ええやん。誰が観てるわけでもないんやし」
 「そ、そういう問題じゃなくてだな……」
 「じゃあなんなん? ウチと腕組むん恥ずかしい言うつもり?」
 綾子が口を尖らせて俺に迫り、俺は思わず引いてしまった。
 見詰め合う。一瞬の沈黙。
 近付く綾子の顔。俺は、目を瞑らなかった。
 軽く、綾子の小さな薄い唇が俺の頬に触れた。すぐに、綾子は飛び退いた。
 「今日は、デートみたいで楽しかった」
 と、俺に微笑みかける。
 「家まで競争しょうか。足の速さならカオちゃんにも負けへんで」
 俺に背中を向けて、走る態勢に入る。
 しょうがない。俺も、楽しかったことは楽しかった。外で、綾子とふたりで食事をしたのは初めてだった。新鮮で、確かにデートのような気もしないでもない。言われるまで、気付きもしなかったのだけだ。
 「じゃ、何を賭ける?」
 綾子の横に並び、声を掛ける。
 「夏休みの宿題」
 「あ?」
 「カオちゃん終わってないやろ? ウチもまだやねん。やから、負けた方が宿題やって、勝った方はそれを写す」
 なるほど。これなら真剣に勝負を楽しめる。いや、それどころかムキになってしまうかもしれない。
 しかし、そうでなくちゃ賭けにはならない。
 「乗った」
 俺は笑顔で言い、前を見詰める。
 「じゃ、位置について、よーい」
 綾子が、真剣な面持ちで言った。もう、頬へのキスは頭にない。
 「どんっ!」


    to be continued
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