三

 「ほう。これが京都駅か」
 ホームに降り、俺は呟いた。
 どんっ、と後ろから押され、
 「うわっ!」
 と前のめりにこけそうになる。後ろを振り向くと、
 「おい真田、出入り口の近くで立ち止まったら後ろにいる人が迷惑だろ、さっさと歩け」
 吉田のバカタレだった。
 「すまんすまん」
 しかし、悪いのは俺なのである。荷物を持ち、さっさとホームを改札へ向けて歩く。
 「京都駅って言っても、日本風じゃないのね」
 穴山さんが綾子と話している。
 「そりゃそうやわ。新幹線が停まるくらいやし、世界的な観光地やからなあ」
 そうか。綾子にとっては京都は地元のようなものなのか。実家は大阪らしいのだが。
 俺は、前を歩く穴山さんと綾子の会話に聞き耳を立てて着いて行く。
 「天井も高いし床も高級な材質やし、空間もゆったり広いし、実は観光客にはあんまり評判よくないねん」
 「なんか矛盾してるような気もするけど……」
 穴山さんが首を傾げる。
 「でもな、純和風って言うたら、こんなコンクリートのでっかい建物やなくて、木造の狭い長屋のような駅舎っていうのがイメージとしてあるやん? わかる?」
 「ああ、わかるわかる。日本の文化とも言える京都が、その入り口とも言える駅が、欧米を真似した造りだと風情がでない、ってことでしょ?」
 「そうそう、その通り。さすが愛美やわ。これがカオちゃんやったら納得させるんに三十分はかかるで」
 「いや、理解できたぞ」
 「わっ、カオちゃんっ」
 「あ、聞いてたんだ?」
 後ろから突然声を掛けたもんだから、ふたりは慌てて飛び退いた。
 「なんや聞いててんな。女の内緒話を盗み聞きするなんてやらしいなあ。ふみちゃんに言いつけたろ」
 「関係ねえだろ……」
 それに内緒話でもなさそうだし。
 正面玄関を出たところで、クラスの皆が一塊になって待っている。これからバスに乗るらしい。
 腹減ったな……。
 今朝は、七時過ぎの新幹線に乗って、今京都に着いたのが十時……何分かは見てない。ということは、朝御飯を食べたのは六時か。
 それ以来何も口に入れていないのである。もちろん、お菓子は車内で食べたが……。
 バスに乗り込む。
 これは、地元の観光バスで、二泊三日の修学旅行の間、ずっと俺たちの学校の貸し切りということになる。
 座る場所は、決まっていない。適当に、座る。自由なのだった。しかし、いないやつがいると困るので、班で出欠を取る。なるべく、班で一塊になる必要があるのだった。
 俺の班は、いちいち説明するのも面倒なのだが、俺と吉田。そして、穴山さんと綾子。この四人は、まあ不動の四人として、男子にひとり、女子にひとり足した、計六名で班を作ったのだった。
 昼食を食べに、八坂神社というところに行くらしい。
 しかし、神社で昼飯……。いいのだろうか? まさか花見をする季節でもないのに。
 バスは渋滞に巻き込まれたようで、ほとんど動かない。
 「京都は車で移動するって思ったらアホやで。チャリがちょうどいいで」
 綾子はそう言うが、
 「修学旅行だぞ。二、三人の小旅行なら自転車でもいいだろうが、人数が違いすぎる。三百人からいるんだからな」
 「あっはっはっ、三百人でチャリの大行進や。一キロくらい列が続くんちゃうか?」
 「そんなには続かねえだろ。せいぜい六百メートルくらいだと思うぞ」
 すると綾子は目を大きく見開き、
 「カオちゃんが計算してる」
 「驚くほどのことでもあるめえ……」
 「天変地異の前触れかも。ひょとすると明日あたり大地震が京都を襲うかもしれんなあ。ウチだけでも生き残れるよう注意しとこう」
 「そんな器用なことは空を飛ばない限りできん」
 「なんやカオちゃんつまらんなあ。もっと乗ってくれんと」
 「……俺は馬鹿にされてるんだぞ。乗るわけねえだろうが」
 そのとき、バスガイドさんの声がマイクを通してバス内に響き渡った。
 「はーいみなさん、お疲れ様でしたあ。八坂神社に着きましたよお」
 と、なぜか小学生を相手にしているような口調で話すバスガイドのお姉さん。その間延びした喋りはどうにかならんのか?
 「この八坂神社はですねえ」
 と、さすがバスガイドらしく、説明を始めた。しかし、目的地に着いてからガイドを始めても、誰も聞いちゃくれない。まずは、外に出る。
 渋滞の中三十分もバスの中に閉じ込められていたのだから、その鬱憤は相当なものなのである。しかし、授業の五十分と比べるとましなはずなのだが、そこはそれ、人間というものは自分勝手にできている。
 二列縦隊になった俺たちは神社の前の石段を上り、門を潜った。開けた空間があり、真ん中に障子で囲まれたミニチュア日本武道館のような形の建物が建っている。結婚式の会場として、この建物は使われることがある。……と、綾子が説明してくれた。
 確かに、これだけ広い空間があれば、三百人の高校生が弁当を広げても埋まることはないだろう、と思えた。
 しかし、前を行く先生は、ずっと先に進んでいる。
 本殿の横を掠め、わけのわからない狭い小道を行く。裏側に行くつもりなのだろうか? それとも、本殿の中で食べるのだろうか?
 寺と違い神社は食べ物を出してくれそうにないのだが、と思っていると、目の前には開けた視界がいっぱいに広がっていた。
 「うおぉ……」
 思わず唸ってしまう、その美観。
 砂利敷きの道筋に、庭園が広がっている。春には桜が咲き乱れるのだろう。今は、紅葉がちらほやと見えている。
 その鮮やかな赤黄色は、確かに見た者に寒々とした印象を与えなくもない。しかし、思わず立ち止まり、ほう、と息を洩らさせずにはいられない日本の晩秋の景色を作り出していた。
 観光客は、多かった。
 八坂神社の紅葉は、なかなか有名なのだろう。カメラを首からかけた老夫婦。若いアベックの姿、女子大生かな、友達同士の小旅行に来ている姿もちらほや見える。
 「八坂神社言うより、丸山公園やな」
 と、俺の敷物と穴山さんの敷物の間に座っている綾子が言った。
 「八坂神社と繋がってるけど、ここは丸山公園いう公園やねん。八坂神社とはまたちゃうよ」
 「ふうん……」
 「綾子って大阪が実家なんだよね。京都にも遊びに来たりしたの?」
 今回初めて一緒の班になった女の子、伊勢なぎさが訊いた。
 ……嘘のような名前だな。
 「京都っていうか、丸山公園は何度かあるで。桜や紅葉を見に来てん」
 話をしている綾子の、言葉を俺は聞いていなかった。俺の視線は、綾子の足に注目しているのだった。
 綾子は、正座をしない。そして、胡座をかくわけでもない。正座の姿勢から、少し足をずらした、見ようによってはちょっと艶かしい姿勢で座っているのである。
 正座をすると足が短くなる。血が止まるからな。だから、綾子は気にしてて、でも胡座をかくのは制服なのでできない。といっても、スカートの下には短パンを穿いているらしいのだが。
 「真田くんってさ、綾子と一緒に暮らしてるんだよね」
 伊勢さんが俺に言った。
 伊勢さんは、小柄だが、ちょっと横に幅が広い。丸顔の、しかし常に笑顔の元気印の女子らしい。いつも綾子と大声で笑い合って喋っているのだが、俺とは今回初めて言葉を交わす女子である。
 ずいぶん、気楽な人柄だと思えた。
 俺が頷くと、
 「じゃあさ、綾子の風呂場を覗いたことってないの?」
 「ぶっっ!」
 吉田が口に詰めた御飯を吹き出し、
 「真田ぁああっっ!! 貴様よくもぉっ!」
 と俺の襟元を掴もうとする。
 「ちょっ、待てっ、吉田に伊勢さんっ、俺はそんなことしていない! 神に誓ってしないっ!」
 俺は必死に首を横に振る。
 「ほんとかあああっ!?」
 「従姉弟にそんなことするわけねえだろうっ!?」
 「でも由利さんならぁっ」
 と、今回初めて言葉を交わす男子、戸城憲夫が凄む。
 「だから誤解だってっ!」
 これが、初めて交わした科白だった。
 悲しい。
 「ごめえん、冗談のつもりで言って見ただけなのよ」
 と、申し訳なさそうに伊勢さんが頭を下げた。
 「ほんまやで。カオちゃんがそんなことするわけないやん」
 綾子がひと睨みすると、
 「すんません」
 「ごめんなさい」
 と、ふたりの男が綾子に謝った。
 俺に謝れよっ!
 「そんなことより吉田くんねえ、さっき飛ばしたご飯、ちゃんと片してよ」
 穴山さんが言った。憤慨している、というような口調だった。
 これは、もしかすると俺は女性陣ふたりには一応信用されていると思っていいということだろうか。
 いそいそとティッシュで敷物に散った御飯粒をせっせと掃除している吉田の滑稽な姿を見て、そんなことを考えるのだった……。

 二条城の中を見た。
 うーん、まあ、確かに城の中を見るというのは貴重な経験ではあると思うのだが……。それほど、特記するほどのものはなかった。
 バスで、これから旅館に入るらしい。いや、バスに乗ったまま旅館の中に入るわけではない。
 旅館に向かい、正面玄関の前で降ろしてもらう。で、歩いて中に入る、のである。
 今日は、これで本日の日程がすべて終了したらしい。ま、朝早くからの新幹線での旅行だ。夕方には疲れもピークに達するのは若者でも仕方のないことだろう。
 その代わり、回復も早い。明日は明日で、また疲れるまではしゃぐことになるだろう。そして、泥のように眠る……。
 一晩しっかり眠ると体力が回復するというのは、若い内だけなのだ。若い俺が言うのも説得力に欠けると思うが、どこからともなく神の声が聞こえてきたのだから確かだろう。
 割り当てられた部屋に入り、荷物を置く。
 吉田と、戸城が同じ部屋だった。他にも、三人のクラスメートが一緒だった。
 三人の内のふたりは、文化祭の時、吉田と共に店の用心棒(?)をしていた綾子の親衛隊だった。ということは、俺以外の全員が、親衛隊と言ってもいいかもしれない。
 夕食までの間、暇なので、俺たち六人はトランプの大富豪をして時間を潰した。
 夕食が終わり、大浴場へ。
 ここで定番なのは、女湯を覗くということなのだが、近代的な旅館ではそれもできない。いや、別に悔しがってるわけじゃないよ。うん。
 風呂場でひとしきり騒いだ後、部屋へ戻る。ちゃんと、皆旅館の浴衣姿だ。
 女子も、浴衣なのかな。と思うと、ぜひ見てみたいと強く願ってしまう俺。
 しかし、廊下には、教師たちが目を皿のようにして見張っている。
 最近、教師という人種も問題を起こしたりして世間を騒がしている。学校側もそれを懸念しているのか、女子の前の廊下には、女性教師を、そして男子の部屋の前の廊下には男性教師を見張りに立ててている。
 鉄壁の防御。これでは身動きが取れない。
 よっぽど、高校生という身分には信用がないらしい。裏返せば、教師も信用できないということにはならないか?
 布団を敷き、寝転がる。しかし、消灯時間だからと言って、普段ですらまだ余裕で起きてる時間に、眠りにつけるわけがない。
 しばらく、雑談が続いた。
 しかし、俺はそれに参加しなかった。別に、話題について行けなかったとか、そういうことではない。ただ、疲れているので、眠りたかったのである。
 では、おやすみなさい……。

 バスに乗り、清水寺へ向けて出発する。
 吉田の目の下には、隈ができていた。見ると、戸城もそうだった。ずいぶんと遅くまで語り明かしたのだろう。何についてかは、俺も想像できないが、眠るよりも重要なことだろうとは確信できる。
 清水の前の長い長い坂を上り、やっと寺が見えたと思ったら今度は石段を上らされる。その上に位置しているのである。
 他の修学旅行生も、そして観光客も大勢いるようだ。こういうのは、もっと日にちをずらすべきではないかと思うのだが、清水寺も商売(?)なのだから仕方がない。
 窮屈な思いをしながら前を進む。狭い木造の廊下は、ぎしぎしと音を立てることはないが、床が抜けるのではないかと、少々不安な気持ちにさせられるのは俺だけではないはずだ。人口密度がものすごい。
 一番の目玉とも言うべき、清水の舞台に辿り着く。……早過ぎないか?
 入り口から、三分ほどの距離か。それも、人が多いからであって、観光客がいなければ一分もかからない場所にあろう。
 それも、そのはず。寺なのだ。そんなに広い道理もない。
 「ねえねえ、清水の舞台から下を見ると飛び降りたくなるって本当なのかな」
 伊勢さんが誰にともなく訊いた。
 「それはちゃうで。清水の舞台から飛び降りる覚悟で、慕う殿方に胸の内を告白する、というのが本当の言い伝えやねんで」
 「え、全然違うね」
 と、伊勢さんは頭をぽりぽり掻いた。
 「ふうん」
 と、俺は身を乗り出すわけではないが、舞台から下を見下ろして、
 「身分違いの恋だったのかな」
 と呟いた。
 「え? なんで?」
 綾子が聞き咎めたようだ。
 「だって、告白するのに命懸けってことは、例えば町人の娘が、武家の男に恋をした場合って、許されねえじゃん。成功しても、武家は家を追い出されることになるし、それか駆け落ちか。どっちにしろ長くは生きられそうにないな。で、失敗したら、つまり男に断られたら娘の方が自害する。そのくらい思いつめた恋ってわけだな。そういう意味で、ここから飛び降りるほどの覚悟が必要だったんじゃないのかな、と俺はふと思ったんだ」
 場が白けていた。
 なんで? と焦ったように俺は周りを見た。もしかすると俺ひとり置いてけぼりを食らったかもしれないと思ったからだった。
 すると、
 「おおおおおっ」
 と、周りから拍手が起こった。
 みなが、口を「お」の形にあけ、手を叩いていた。視線は、俺に向いている。
 しかも、驚いたことに、いや、これが何より驚いたのだが、班の連中だけではなく、ただの一般観光客や、他の学校の制服を着た修学旅行生からも、拍手が向けられていたのだった。
 「カオちゃんいいこと言うねえ」
 「真田くんかっこいい」
 と、綾子と伊勢さんが手を叩きながら言った。
 「なんで?」
 俺が訊くと、
 「この寺が建てられた頃はな、今と違うて女性から愛の告白ってしたらあかん世の中やってん。女性からは、はしたない、淫乱や、とまで言われててん。やから、清水の舞台から飛び降りる覚悟で告白するっていう科白が出来てんで」
 綾子が答え、
 「君、考え過ぎだったね」
 と、一般観光客のおじいさんが言った。
 「でも現代の若者からそんな科白が聞けるとは思ってなかった。長生きはするもんじゃのう、ばあさんや」
 と、わけのわからない感銘を受けているようだった。
 「な、なんだ、ただの時代の違いってわけだったのか……」
 俺は顔を真っ赤にさせ俯いた。
 ということは、拍手をした皆は、それを知っていたということなのだ。
 実に、恥ずかしい。俺はなんて馬鹿な事を言ったのだろうか。教養がないのを逆に見せつけたことになる。
 「なるほどなあ、そういう考え方もあるんやなあ」
 「なあ。でも、それを知らん人ってのも珍しいやんなあ」
 「ウチらでも知ってんのにな」
 「あはははは」
 と、他の制服を着た、おそらく関西の学校なのだろう、女子生徒が数人で話し合い、最後に笑った。明らかに、俺は馬鹿にされている……。
 「ちょっとあんたら笑い過ぎちゃうか?」
 と、綾子が咎めるように言った。
 「ただの時代の違いだけってより、カオちゃんが言ったことの方がロマンチックやん」
 「うん、やからウチら最初は冗談や思てん。けど、素やし、本気で言ったんやな思て笑たん」
 「うんうん、最初は感心して拍手してんで。知ってるやん」
 と、口々に言い訳する。しかし、その言い分も確かにその通りなのであった……。
 つまり、結局は、最後に馬鹿にされたわけである。
 「行くぞ綾子。こんなとこから早く消えてしまいたい」
 と言って、俺は綾子の腕を引っ張った。
 「じゃあそこから飛び降りたらええやん。すぐに消えるで」
 それを聞いた皆は笑った。俺の班の連中も。
 何しろ、それを言ったのは綾子だったのだから。
 「……お前、どっちの味方だよ」
 呟いた俺の声は、周りを囲む笑いの渦に掻き消されたのだった……。


    to be continued
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