序章:プロローグ
ピピピピピピピピ。
…カチッ。
午前七時三十分。目覚まし時計を止め、いつも通りベッドを出る。
この一年間、毎日変わらない生活習慣を続けてきた。とりあえず、それも今日で終わる。
今日は、俺の高校の終了式。終業式と違うのは、まあ学年の締めくくりの日と言えばわかってもらえるだろう。
ベッドから出た俺は、寝る前に揃えておいたブレザーの制服を着、部屋を出た。
――俺の名前は真田薫。かの有名な真田左衛門佐幸村の子孫である。
わけがない。ごめんなさい。
とはいえ、俺は真田幸村が好きだ。同姓のよしみと言えば恐れ多いが、俺は勇猛果敢な軍師、真田幸村と同じ苗字であるということを誇りにしている。ただの偶然だが。
名前のことは、どうでもいい。自己紹介の途中だった。
俺は、今年十六になったばかりの、高校一年生である。といっても今日で終わりで、四月からは二年生になるのだが。
ひとつ学年があがるということに、実感はない。中学から高校に入学した頃は、なぜか誇らしい、おとなになった気分がしたもんだったが、学年がひとつ上がるくらいでは、特に何も感慨はない。内面が変わっていないからだろうか。とはいえ後輩ができるというのはいい。何か年長者ということをひしひしと肌で感じる。……当たり前だが。
そう言えば、知り合いの女の子が、後輩としてうちの高校に入ってくるらしい。ふっふっふ、先輩面してやろうか。
実際先輩なのだが。
そんなことを考えていたので、俺は顔がニヤけていた。トーストを焼きながら、俺はニヤけていたのだ。それを見た母親がどんな顔をしたか、それは読者の想像にお任せしよう……。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴った。こんな朝からうちにやって来るやつはひとりしかいない。しかも、毎朝同じ時間だ。
がちゃ、と俺がドアを開けると、そこには青いカチューシャをはめたセミロングの女の子がいた。と言っても、さっき言った後輩の女の子ではない。
「おはよう薫くん。用意できた?」
笑って言ったこの子の名前は望月ふみ。隣りに住んでいて、物心ついたときからの付き合いをしている、言わば幼馴染。同い年だ。
「うっす。もうちょっと待て。今トースト焼いてる」
「え? でもそろそろ時間ないよ?」
と、右の手首にはめた時計を見る望月。俺は聞き咎めた。
「ん? 時間がない? 今何時?」
「もう八時五分だよ」
「何ーっ! 俺が起きたの七時半だぞっ。なんでそんなに時間が経つの早いんだっ?」
「さ、さあ……」
望月は困ったように首を傾げた。そりゃそうだ。俺が何時に起きたのかこいつが知ってるはずがない。
「しょうがねえ、かじりながら行くか」
「今日学校お昼までだし、我慢したら?」
「ばか。一日の元気は朝ご飯からいただくんだぞ」
と玄関で話していたら、
「薫ーっ、パン焦げてるよーっ」
奥から母親の声が飛んできた。
「すまん、ちょっと待っててくれ」
望月にそう言い残し、俺はキッチンに飛び込む。次の瞬間黒く焦げたトーストを口に咥え、玄関へと飛び出す。
あ、カバン忘れた……。
今日は終業式だから別に荷物を持っていく必要もないんだが、そう言えば成績表とかいうくだらない物を受け取らなくちゃいけないから、やっぱり隠すために(?)カバンが必要か。俺は土間に突っ立っている望月に手を振り、二階へと上がった。
「ふう。やっと家を出れた」
学校へ向かう道すがら、俺は口に咥えたトーストを租借しながらぽつんと洩らした。望月はただ笑っているだけで、何も言わなかった。
それには理由があって、食事中に喋るのは行儀が悪いと考えているから、自分が食べている時は当然としても、他人が口に何かものを入れている時でも、望月は何も話し掛けたりしないのだ。ただ、隣りでニコニコ笑っている。
「おにいちゃ〜んっ!!」
しばらく俺が望月と仲良く並んで歩いていると、後ろから声が聞こえてきた。そして、ばたばたと駆けて来る音。
筧聡子ちゃん。声と足音でわかる。長年の付き合いだからな。
俺と望月は振り向き、
「よう」
「おはよう、聡子ちゃん」
と声を返した。ちなみにトーストはとっくに食べ終わっている。
「おはよう、お姉ちゃん」
聡子ちゃんは望月に向かい合い、笑顔で挨拶する。
この子が、冒頭で言った俺の後輩の女の子。今春からうちの高校に入る予定の、ひとつ年下の幼馴染だ。
聡子ちゃんは、俺のことを「お兄ちゃん」と言うし、望月のことを「お姉ちゃん」と呼んで慕ってくれている。お互いひとりっこの俺と望月にとって、聡子ちゃんは本当の妹のようにかわいい存在である。
聡子ちゃんは、俺たちが去年まで着ていたのと同じ中学の制服を着ている。セーラー服である。
「聡子ちゃんの学校は、卒業式いつだっけ?」
俺が訊いた。
「私のとこはですねえ、来週ですよ。お兄ちゃんたちは、明日から休みなんですよね?」
聡子ちゃんは、いつからだったか、俺と望月に対し敬語を遣うようになった。小さい頃は、もっと親しい口調だったのだが、最近では俺に対しても望月に対しても、敬語を遣っている。
親しき間にも礼儀あり、といったところなのだろうと、俺も望月も気にしないことにしている。そんな堅苦しい言葉遣いはしなくていいと言ったのだが、本人がそうしたいと言うのでしょうがない。
「そうだよー、聡子ちゃんよりも一週間休みが長いんだよ」
うらやましいでしょう、とでも言いたげな望月の口調に、聡子ちゃんは頬を膨らませる。
「もうすぐ聡子ちゃんも卒業かあ。中学の思い出とか、いっぱい作った?」
俺が訊くと、
「えー。お兄ちゃんたちが卒業しちゃってからは、あまり楽しくもなかったかなあ……」
と寂しそうな顔で聡子ちゃんは答えた。しかし、それを勘違いするほど、俺はめでたくない。
「でも四月から二年間は一緒の学校だから、いいんです」
と聡子ちゃんは気を取り直したように笑顔で言った。
しかし、既に俺たちが卒業する二年後のことを考えているとは……。まだ聡子ちゃん、うちの高校入ってもいないのに。
「そしたら中学の時のようにまた三人で登校できますし、お昼も一緒に食べられますよね。それが今から楽しみで楽しみで!」
本当に嬉しそうな顔で話す聡子ちゃんを見ていると、こっちまで笑顔になってしまう。これが聡子ちゃんの魅力だろう。聡子ちゃんの笑顔は、周りの人にも笑顔を生まれさせる。
この顔を見ていると、確かに一緒に登校したり弁当を食べたりするのが楽しみになってくる。
「そのときはみんなでおかずを交換しあおうね」
望月が聡子ちゃんの話に乗った。それを聞いた聡子ちゃんはわが意を得たりと大きく頷く。
このふたりは本当に仲がいい。本当の姉妹のようだ。
それからは、俺を放ったらかしにして、望月と聡子ちゃんがふたりだけの会話で盛り上がっていた。
「じゃあ、ここでさよならですね」
高校の正門の前で、聡子ちゃんが言った。ちなみに高校の裏に、聡子ちゃんが通っている中学校がある。すぐ、背中合わせの距離だ。
「じゃあね聡子ちゃん。勉強がんばってね」
「はい」
という望月と聡子ちゃんの会話聞きながら、俺は聡子ちゃんに笑顔を向ける。さよならという意味だ。それに気付いたのか、目を合わせた聡子ちゃんは軽く頭を下げて、それから後ろに向かって駆け出した。
「聡子ちゃんてかわいいね」
その遠ざかって行く少女の姿を見送りながら、望月がぽつりと言った。それは俺も同感だったので、そうだなと答えておく。さらに、
「聡子ちゃんて、彼氏いないのかな。あんだけ明るいしかわいいし、彼氏のひとりやふたりいてもおかしくないと思うんだけどな」
と付け足した。
「彼氏がふたりもいたら、それは二股だよぉ」
望月が驚いたように声を大きくした。
「いや、まあ、それくらいいい子だってことだよ」
「うん……まあいい子には違いないけどね」
ん? けど? 何となく違和感を感じる言葉だな。
「聡子ちゃんには彼氏いないと思うよ。でも、たぶん好きな人はいると思う」
最初の俺の質問だ。ここで望月はいくらか真剣な表情で自分の意見を話してくれた。
「へえ、やっぱりいるんだなあ。誰なんだろうな。俺の知ってるやつかな」
「やっぱりって……どうしてそう思うの?」
「ん? そりゃ、だって聡子ちゃんももう十五歳だろ。初恋のひとつやふたつは経験してるだろうし、好きな人のひとりやふたりはいるだろうなあと思ってな」
「……そればっかしだね、薫くん」
望月は溜め息をつく。何がそればっかしなんだろうか、と考えて、あ、好きな人のひとりやふたりと言ったことか、さっきも彼氏のひとりやふたりいるだろう、と言った俺の言葉を指しているのだろうと気付いた頃には聡子ちゃんの姿は視界から消えていて、何もない春の陽気だけが温かそうに、そこに漂っていた。
「……教室に行こうか」
と俺が言った瞬間、遅刻を示すチャイムが敷地内に鳴り響いた。
「わっ、遅刻だっ」
俺たちは焦るように驚き、一瞬顔を合わせると、一目散に昇降口へと駆け込んだ。
……終了式に遅刻って……。
「私はちゃんと早く家を出たんだけどね」
と、廊下を走りながら望月が俺を責めた。
俺のせいかよ。俺だってちゃんと七時半には起きてたんだ。しかし、なぜかトーストを焼いている時には既に八時を過ぎていたんだ。
………そうか。俺の目覚まし時計が遅れていたのか。
となると、今日の遅刻はやはり俺のせいになるな。
横を見ると、ふうふう言いながら走る望月。
しかし、俺は彼女に謝らない。今更謝るような関係ではないのだ。小さい頃から一緒に遊んで育ってきた仲なのだ。そんなことでいちいち謝ってたら、俺は四六時中望月に謝ってないといけなくなる。それほど迷惑をかけている。と、ちゃんと自覚しているのだ。
ふたりは廊下を駆け、教室へ向かう。体育館へ向かうため、廊下へ並び始めている友人たちの横を通り過ぎる。
人ごみを掻き分けるようにして前へ進み、やっと自分のクラスへ辿り着く。
「お前ら終了式に遅刻たあいい度胸じゃねえか」
という仁王像のようにそびえ立った担任の優しい出迎えを受け、すごすごと教室にカバンを置きに入り、こそこそと列に並ぶ。
それからは例によって例の如く、みんなで順番に体育館に向かい、さらに毎年毎年誰もが経験する、校長先生の長い訓示を聞き、やっと教室へ帰れる。こういう行事の時くらいにしか校長の顔を見ないのは俺だけではないはずだ。
教室へ戻り、席に座ると、悪友とも言える吉田光がいつもながらのニヤニヤした顔で近づき、
「よお、真田。お前が遅刻するのはどうでもいいけど、望月さんまで巻き込むことはないんじゃないのか?」
と言った。
「知るか。あいつが遅刻したのは俺のせいじゃない」
すると吉田はきょとんとした顔になり、
「なんだ、お前が寝坊したせいかと思ってた」
「そんなわけねえだろ。俺の目覚し時計が三十分遅れてて寝坊したなんて、あるわけねえだろう」
「……なるほど、今日の遅刻はそのせいか」
「なぜわかったっ。さてはお前エスパーだなっ」
「じゃあな」
手を挙げると吉田はさっさと姿を消した。
その通りとは言わないまでも、せめて自分で言ったじゃねえかと突っ込んでくれないと、必死こいてボケた俺の立場がないではないか……。
その後、しばらく雑談していると、担任が入ってきた。すると不思議なもので、つい数瞬前までは騒がしかった教室内が、とたんに静かになる。まるで夜の墓場のようだ。
いや、それは言い過ぎか。とにかく鈴虫が鳴ってもよく聞こえるくらいの静けさだと思ってくれればいい。それは単純な理由で、担任が怒鳴ると恐いということで、それで怒鳴られる前に静かにするという風に、生徒は皆学習した。
担任は――名前はどうでもいいから言わないが――すぐに通知表を返すため出席番号順に名前を呼ぶ。そして手渡す瞬間に一言二言成績に関して言葉を交わす。俺のときは
「あまり望月に迷惑かけるなよ」
だった……。
全然成績と関係ねえじゃねえかよお、おっさんよお。
「どうだった?」
席に戻ると、望月が声を掛けてきた。こいつの成績とは比べられたくない。
望月は、学年でもトップクラスの成績を保持している、優等生なのだ。だから、担任も望月に迷惑をかけるなと言ったのだ。望月には学校の期待も背負っている、とのことらしい。
「ほれ」
と言って望月に見せないわけにはいかない。というより俺の成績を知らない望月じゃないし、期待されてもいないわけだから見せても何も感じない。これを俗に開き直りと言うが、まさにその通りの心境なのだ。
「あ。でも二学期よりは上がってるね」
でもってなんだよでもって。低いなりにってことか? 失礼な。
「ま、試験前お前が特訓してくれたおかげだろうな」
「え、そうかな」
「ああ。お前教え方がうまいからな。将来学校の先生とか似合うんじゃねえか?」
「え、そうかな。確かにちょっとだけ興味あるけど」
「はい静かに」
という担任の言葉で、俺たちの会話は中断させられた。と言っても担任が俺たちふたりの会話をわずらわしいと思ったわけではない。周りの生徒全員がそれぞれ誰か友人と話していたのだ。つまり、教室全体がざわついていた。その煩わしさを取り除くために、担任は一言言ったのだ。
「さて。まあ中には来年も俺が受け持つクラスに配属される人もいるだろうが、とにかく今日でみんなとはお別れになる。一年間、お疲れ様。また四月からも、勉強に青春に、励んでもらいたい」
まるで卒業式のスピーチのようだ。
とにかく、俺たちの一年生の時間はこれで終わったことになる。一年間世話になった教室、机、黒板などを網膜に焼き付ける。と言っても卒業ではないので、来年も再来年も、同じような教室の景色を眺めることになるのだろうが。
俺はカバンを取り、立ち上がった。教室には既に数人ほどしか残っていない。
そう言えば望月が昇降口で待っているはずだ。同じクラスなのに、教室を出るのは一緒でない。それなのに、昇降口でいつも落ち合う。別にそういう約束をしているわけではないが、いつの間にやらそんなことになってしまっていた。恐らく、望月が同級生に冷やかされたのだろう。
俺は急いで開けっ放しのドアから廊下へ出た。
小走りだったのがいけなかったのだろう、ちょうど向こうから教室に入ろうとしていた女生徒と、危うくぶつかりそうになった。
「おっとっ」
前のめりになりながらも、俺は間一髪で止まれたことに安堵した。
正面にいた女生徒は、驚きのあまり身を強張らせている。元々白い肌の彼女は、血の気が引いたように顔を白くさせていた。
「ごめんな。大丈夫?」
女の子がゆっくり頷くのを待ってのち、俺は彼女の横をすり抜けるようにして廊下へ出た。そしてそのまま、一度も振り返らずに昇降口へと急ぐ。今ぶつかりそうになったにも関わらず、俺は走るのだ。
そう言えば、と俺は考えた。さっきぶつかりそうになった生徒。確か名前は穴山愛美と言っただろうか。この一年間、せっかく同じクラスになったのに、一度も言葉を交わしていないような気がする。それが最後の日に、あんな形で声を掛けようとは、思いもよらなかった。
昇降口横で靴に履き替え、校舎を出る。隣りの出入り口との間の壁に、望月が空を眺めて立っていた。
「よう。待ったか?」
すると望月はゆっくりと俺の顔に視線を移し、笑顔でこう言うのだ。
「足がくたくた」
………。
普通は、全然待ってないよぉ、とか、今来たとこだから、とか言うもんじゃないのだろうか?
そんなわけで(どんなわけだ)、俺は望月を家に連れて帰り、とりあえずあったかいコーヒーでも淹れてやることにした。自販機のコーヒーでないところが俺の誠意だ。
え? だったら喫茶店に連れてってやれって? そんな金は持ってないのよ。
いいじゃねえかインスタントでも。最近の即席コーヒーも味にうるさくなってきたからね。へたな喫茶店に入るよりおよそ経済的なんだよ。
「おじゃましま〜す」
と、望月がうちの玄関に入るときに言った。今の時間はうちには誰もいないということを知ってるくせに、なぜか望月はいつもそう言う。
「とりあえずリビングで寛いでてくれ。着替えてくる」
玄関口で俺は言い、階段をさっさと上がる。望月はさすがにうちに慣れているだけあって、案内を乞わなくてもちゃんとリビングへ行ける。これが普通の女の子なら、男の家に入るんだから照れたりするんだろうなあ、と俺は普段着に着替えながら関係のないことをぼんやりと考えた。
下に降りると、ダイニングのテーブルの前で望月が突っ立っているのが見え、どうしたのかと訊いた。
「これが置いてあったよ」
と、彼女が差し出した紙を見ると、
“今日午後十四時五十分の汽車で綾子ちゃんがやってきます。悪いけど駅まで迎えに行ってあげてね”
最後に、
“朝話すのをド忘れしていた母より”
と書いてあった。
何がド忘れなんだか……。四十をとうに過ぎたおばさんが。
「十四時五十分…? あと三十分しかないじゃんっ」
壁に掛けられた円い時計を見て俺は驚いた。やばいなあ、走ってもぎりぎりじゃねえか。
「ねえ」
ま、考えててもしょうがねえか。とりあえあず行こう。
「薫くんっ」
「ん、何?」
「綾子ちゃんて、誰なの?」
「それはもっともな質問だよ望月くん」
「なんで教授風の喋り方なの……」
「綾子は、俺の従姉弟なんだ。俺の母親の、兄の娘。俺たちと同い年なんだ」
「へえ……なんでそんな娘が来るの?」
「従姉弟なんだから遊びに来るのは普通だろ」
「それもそうか……」
「んじゃちょっと行ってくる。コーヒーは帰ってから淹れるから待っててくれ」
「え、ちょっ……」
望月の静止の声は聞かない。のんびり喋っている場合じゃないのだ。俺は家を出ると、急いで走って駅に向かった。
駅に着いたとき、柱に掛けられた時計を見た。時間はもう十四時五十分を三分ほど過ぎていた。
「もう着いちゃってるかな……」
俺は舌打ちとともに呟き、往来する人の顔をひとりひとり眺める。綾子を探すのだ。ふと、そこで気付いたことがあった。
「そう言えば綾子って、どんな顔してたっけ……?」
最後に会ったのは、確か俺が小学生の頃だから……もうかれこれ五年くらい経ってるんじゃないか? 顔を見てすぐに綾子ってわかるかなあ……。
「あいつだってすぐにはわからないだろうしなあ……」
呟きながらも辺りをキョロキョロしてると、ふとある女の子と目が合ってしまった。女の子を探していたのだから女の子を見るのは当たり前だが、こうして目が合ってみると気恥ずかしい。まるで女の子を物色するナンパ師のようじゃないか。
慌てて女の子から目を逸らし、改札の方に眼を向ける。
「あのぉ……」
と横から声を掛けられ、見ると、今目が合って気まずい思いをした女の子ではないか!
「は、はい……?」
何か文句を言われるのだろうか、と不安な面持ちで彼女の次の言葉を待つ。
「もしかして、カオちゃんちゃう?」
「は?」
誰かと間違っているのだろうか。カオちゃん? そんな風に呼ばれた記憶はとんと思い出せないなあ……とおじいさん風に言って見たところ、何かが記憶の片隅に引っ掛かった感覚があった。
俺はまじまじと女の子の顔を眺める。
ぱっちり二重の瞼。細く長い整った顔立ち。髪の色は茶色に変わっているが、特長のある関西弁。スタイルはジュニアモデルのようにすっきりしているが、もしかして……。
「……綾子か?」
三角関数の難しい問題を解いているときのような気難しい顔で俺が訊くと、その女の子ははちきれんばかりの大きな笑顔を浮かべ、
「うんっ!」
と頷いた。
それから再会の挨拶を交わし、俺たちは俺の家に向かうことにした。
綾子は、手に小さな旅行カバンをひとつ持つだけで、他には何も持っていないようだった。何日間家に滞在するのかはわからないが、女の子のお泊まり用具はこんな小さく済むものではないだろう。服だけでも相当な量になるはずだと訝ったが、しょうがない。本人はあっけらかんとしている。
俺は綾子の小さな荷物を強引に持ち、家までの道のりをゆっくりと歩いた。家に望月が待っていることなど、忘れてしまっていた。
俺は、この同い年の従姉弟の女の子の、昔とはまったく変わってしまった容姿に思わず見惚れてしまっていた。血のつながりがあるというのに、俺は綾子の顔を見ていると心臓がドキドキ脈打つのを実感した。
た、確かにかわいい。小麦色の肌は健康的だし、小柄で細身の身体は女の子である。しかし、性格はいたって明るい。底抜けとも言えそうなほどに元気だ。俺の家に向かう途中の道すがら交わした言葉の中でも、すべてが綾子から持ちかけてきた話題だし、そのすべてに関西人特有のユニークな冗談も混じっていて、楽しかった。
家に着いて、玄関を入る。すると、奥から望月が出迎えてくれた。
「悪いな、留守番させて」
と、望月がいるということを今思い出した俺は驚きを隠すように言った。
「ん? 誰?」
と綾子は首を傾げたあと、
「あ、もしかしてカオちゃんの彼女!? やるやんカオちゃん!」
と俺の腹をひじでつっついた。とにかく元気いっぱいな娘である。
望月が呆気に取られている。何も口を挟めず、ただぽけっと口を空けていた。よっぽどこの従姉弟の性格が意外だったのだろう。まるで珍獣でも見るような目だった。
「あ。ウチ由利綾子いうねん。カオちゃんとはただの従姉弟やから気にせんといてな」
と綾子はカラカラ明るい笑顔で自己紹介した。
「……あ。私、は、望月ふみです。隣りに住んでて、薫くんとは幼馴染なんです」
と、望月は慌てたように頭を下げた。なぜか舞い上がっているような気がした。
「ふみちゃんな。んなこれからよろしゅう」
と手を差し出した。望月もおずおずと手を差し出し、ふたりは手を握り合った。と言ってもがっちり握り上下に振る綾子と違い、望月はただ綾子の手に触れただけのようだったが。
「カオちゃんとは同じ学校なん?」
「え。うん。そうです。一年の間は同じクラスでした」
「そうなんや。んな二年はみんな同じクラスになれるとええなあ」
「え……由利さん、うちの高校に通うんですか?」
「由利さん? 止めてな。綾子でええから。――うん。四月から編入することになってん。カオちゃんから聞いてへんの?」
「聞いてないーっ」
望月は俺の顔を見た。その眼はなぜか睨んでいるようだった。
「綾子。それほんとか? うちには春休みを利用して遊びにきただけじゃねえのか?」
「え、ちゃうよ。え、おばちゃんから聞いてへんの?」
俺はふるふると首を横に振った。
「…ま、うちの母さん、ド忘れがひどいから……」
あ、そうか。と俺は思った。だからこんなに綾子の荷物が少なかったんだ。ということは、明日か明後日あたりにでも荷物が届くのかもしれない。
「じゃあ綾子ちゃん、薫くんと同棲するんだあ……」
望月がぽつりと言った。
「同棲言うても従姉弟やからなあ。あ、気になるならふみちゃんも一緒に住む?」
と綾子が悪戯っぽく笑いを浮かべて言った。それを聞いた望月は、
「…そうしようかなあ」
と、俺には跳びあがりそうなほど意外な返事が、神妙な口調で返って来た。
to be continued