三

 音が聞こえて、少年は目を覚ました。
 天井が見える。ここはどこだ。宿屋に泊まったのか。その割りに、チェックインした記憶はないのである。少年は、ぼんやりした頭を動かし、横を向いた。
「あ。目が覚めましたか? おはようございます」
 ベッド脇の椅子に座っていた、幼い女の子が気が付いて言った。誰だお前は。そして、ここはどこだ。問い掛ける代わりに、少年は上体を起こそうとして走った足の激痛に、再びベッドに倒れこんだ。
「あ、ダメですよ。傷口は塞がったけど、当分は絶対安静だってお医者さんが言ってましたから」
 めくれた布団を少年に掛けながら、女の子は言った。呻きながら、うっすらと開いた眼を少女に向ける。足の怪我。それで、この少女と会ったことがあると思い出した。
「あ、私のことわかりますか? 三人組から助けてもらった……おにぎり持ってた人です」
 説明のしようがないのだろう、少女はおかしな紹介をした。
「私はイリアっていいます。で、ここは私の家です。私を助けて怪我したんだから、ゆっくり休んでくださいね」
 何を言っても返事をしない少年を見て、イリアは取り繕った笑みを浮かべた。少年の冷たい眼だけが、それを見つめている。
「やっぱり男の人って筋肉がある分重いんですね。私ひとりじゃ運べなかったんで、お父さんや村の人に頼んで、運んでもらったんです」
 イリアは言った。少年は子どもだが、イリアにとっては年上なのである。
 少年は、部屋の中に視線を走らせた。この家は、宿屋を思い出させるほど、立派な造りをしている。この部屋は、額に入れた風景画を壁に掛けてあり、家具も小さな文机、少年が寝転んでいるピンクの布団一式のベッド、そして小さな木製の箪笥というだけで、簡素に装飾されている。
 部屋の広さは、八畳ほどか。家具が少ない分ほどよい空間があり、ゆったりとした気持ちにさせられる。そして、窓が部屋の壁の二方向にあり、明るく清潔な印象を与えた。外に、木の先が見えているところを見ると、ここは二階なのだろう。ひどく私的な感じがするが、少年は宿屋を思い出さずにはいられなかった。しかし、宿屋には、この部屋のように包み込むような暖かさはない。簡素な装飾の割りに、暖かさあるのだ。少年はなぜか、懐かしい気がした。
「あのぉ」
 まるで自分の向こう側を見るような目つきでいた少年に、イリアは瞑想に耽っている修行僧の邪魔をするような口調で、申し訳なさそうに口を開いた。
「お名前、伺ってもよろしいでしょうか?」
「アルカス……」
 一瞬間を置き、少年はぼそっと低い声で呟いた。やっと返事がもらえたイリアは、笑みが顔中に広がるのを必死に抑えようとするが、抑え切れず、珍妙な顔になった。
「お医者さんの話だと、一月くらいは安静にしてなきゃダメってことだから、それまでは私がお世話しますね。アルカスさんは、私の命の恩人ですから」
 ムン、とガッツポーズをしながら、イリアは言った。
「それにしてもひどい怪我だって、お医者さん言ってましたよ。骨に異常はないけど、筋肉が切れちゃってるから、傷が治ってもリハビリが必要なんだって。歩けなくなっちゃったから」
 イリアの科白を聞いて、アルカスは天井を見上げた。旅が、できなくなる。一月も、同じ場所に留まることは、まずない。せいぜい、一泊。それが、怪我の治療に一月も旅が遅れる。別段急ぐ必要もない旅ではあるが、そうのんびりもしていられない。斬りおとされなかっただけ、マシと思うしかないと、アルカスはイリアに気付かれないよう小さく溜め息をついた。
 夕方になり、日が暮れた。アルカスは、目が覚めてからの半日、ベッドの中で天井を見上げて過ごした。目を瞑っても、眠れないのだ。野宿を繰り返す生活をしてきたアルカスにとって、ふかふかのベッド、布団というものは、逆に寝心地の悪いものに感じられ、肩が凝る思いがするのだった。
 食事が運ばれてきた。運んできたのは、イリアだった。お盆に載せて、ゆっくりと歩きながらアルカスの枕元に近付いてきた。湯気が立ち上っているのが、寝転んでいてもわかった。
「ご飯ですよー」
 ベッドの横の棚の上にお盆を置き、イリアは言った。その棚を、さらにベッドに引き寄せる。
 その様子を見ながら、アルカスは疑問に思った。この家には、本当にイリアの両親や家族が住んでいるのだろうか。朝から、イリアの顔しか見ていない。声や物音も、聞こえてこないのである。まるで無人のような、イリアの家なのだった。
 普通、娘の命を救った恩人なら、両親が挨拶に見えてもおかしくない。もちろん、それを期待したことはないし、命を救ったというのは結果論に過ぎないとしか思っていないアルカスだが、世間一般の常識からいくと、これはいささか奇妙に思えるのだった。仕事に行っているのかもしれない。そう思うと、なるほどと頷ける。アルカスは、敢えて考えないようにした。
「熱いから気をつけてくださいね」
 だが、アルカスは身を起こせない。起こすと、また足に激痛が走るだろう。寝返りも、打てない状態なのである。
「私が、食べさせてあげます」
 いつまでも起き上がらないアルカスを見て、ようやくその理由に思い至ったのか、イリアが慌ててお盆からお椀を取り上げた。
 この、惨めな気分は一体なんだ。アルカスは、口に運ばれたお粥を噛み締めながら心が重くなった。
 草を食べることにも、慣れていた。どれが食べれる草で、薬草として使えるのはどれか。それも、だいぶ詳しくなった。初めて草を食した時のひもじさや惨めさと比べれば、暖かい食事が食べられるだけ遥かにマシだろう。だが、惨めさはアルカスの中から消えなかった。地の底から滲み出る水のように、心の奥底から、鉛のようなどす黒い気分が心を覆い尽くそうとしているのを感じた。
 久しぶりの、実に四日ぶりの食事なのに、味もわからない。アルカスはただ、機械的に口を動かし、飲み下すことを繰り返した。
「そう言えば、助けてもらったときも、お腹空かしてたんですよね。おにぎりくれたら助けるみたいなこと言ってましたから。結局、あの時食べてませんし、アルカスさん、丸一日寝てましたからね。おいしいでしょ?」
 アルカスは返事をしなかった。昨日、イリアを助けたことになる。四日ぶりではなく、五日ぶりの食事かと、そう思っただけだった。
「アルカスさんは、どこに向かってたんですか?」
 アルカスの口にご飯を運びながら、イリアが訊いた。見ず知らずの男の口に食事を運ぶのは、思春期に入ろうとしているイリアには照れくさいことなのかもしれない。何か話してないと、顔が赤くなってしまう。それを隠すために、話題を探しているのかもしれないが、アルカスはただ、よく喋る子だと思っただけだった。
 そんな風にして、三日が過ぎた。アルカスにとって、まったく無駄とも言える日々だった。旅をしていれば、先に進む。ただ歩くだけでも、三日分先に進むのだ。ただ寝転んでいるだけというのが、耐えられない。何度も起き上がろうとして、その度に激痛に苦しんだ。
 イリアは、アルカスの傍から離れようとはしなかった。何をするでもなく、一日中アルカスの剣を眺めていたりする。そして、旅の話を聞きたがった。アルカスはしかし、名前を言って以来、一言も口を開こうとしなかった。彼が考えていたのは、早く傷を治して、ここを出て行くこと。自分がここにいるのが、ひどく場違いな気がして、居心地が悪い。少々の痛みを我慢してでも、ここを出て行きたいと考えていた。
 この家に運ばれてきて、一週間が過ぎた。起き上がるのにも、まだ苦労する。上体を起こした後、激痛に、息を整える必要があるくらいだった。
 二週間が過ぎ、三週間が過ぎた。旅で鍛えられたのか、足は頑健そのもので、普通に立って歩いても、痛みはほとんど気にならなかった。
 その間も、上体を起こしては激痛に苦しみ、立ち上がっては倒れるを繰り返した。結局、痛みに鈍感になっただけなのかもしれないと、アルカスは思った。
 イリアは、ずっと傍にいた。立ち上がる練習をするアルカスに手を貸して、振り払われたことも一度や二度ではない。アルカスが倒れる度に、イリアは泣きそうな顔をした。
「両親は、どうしている」
 ある朝、アルカスが訊いた。三週間もいれば、さすがに旅の話も、ぽつりぽつりと聞かせるようになっていた。どういう町や村を通ってきたか。どんな人たちがどんな生活を営んでいるかといったことだが、アルカスは、他人に無関心なので、ほとんど聞かせてやるようなことはなかった。アルカスの方から話し掛けたのは、これが初めてだった。
「お父さんは仕事に行ってますけど、お母さんならいます」
「できれば、父親がいいんだが」
「話がしたいんですか? なら、夜になれば帰ってきますよ」
 結局、一度もイリアの家族の顔を見ていない。小さな男の子の声は、何度か聞いたことがあるが、姿はやっぱり見ていないのだった。イリアひとりが住む家かと思われたが、小さな男の子もいる。それで、アルカスの中にあった疑いのようなものは、ある程度消えた。だが、両親がなぜ顔を見せないのかという疑問は残る。
「そろそろ、旅に出ようと思う……。世話になった礼を、言っておく必要がある」
 途端に、イリアの顔が強張った。何か言いたそうにしているイリアから視線を逸らし、アルカスは自分の命を何度となく救ってきた、心を許せる唯一の存在である剣を手に取った。
 刃の幅が細く、軽い。ただ、刃には厚みがある。斬るというより、突くことに重点を置いた造りになっている。旅に出るなら、手入れをしておかなくてはならない。イリアを助けるために人を斬ったが、今度は自分が斬られることになるかもしれないのだ。剣の手入れが悪いと、武器として、身を護るものとして使い物にならないこともある。
 久しぶりに握った、剣の感触。手にしっくりと馴染むような感触に、不思議と気分が安らいだ。
 アルカスは、この家の中で、鎧などの装備はせず、イリアの父親のものらしい春物のセーターを着ている。
「少し、散歩に出たいんだが」
 立ち上がって、アルカスが言った。痛みがあり、ちょっとよろける。
「ええ……でも」
 なぜか、イリアは躊躇する。
「三週間もこの中に閉じ込められていたんだ。この部屋の外にも、出たことないしな。リハビリのためにも、一度は外を歩いておきたい」
 半ば押し切る形で、アルカスはイリアを散歩に引っ張っていった。リビングに、イリアの弟がいた。母親がキッチンでクッキーを焼いていて、それを楽しみに待っている、といった表情をしていた。だが、母親の姿はない。
 男の子の目が、アルカスに向いている。まるで、張り付いたように、アルカスの顔から視線を動かさなかった。
「ちょっと、リハビリのために外を歩いてくるの」
 イリアが言うと、男の子はふーん、と、興味なさげに言った。しかし、玄関に向かい、外へ出るまで、彼の視線をアルカスは背中に感じた。


    to be continued
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