6:吹奏楽部

 「あ、やっと来たー」
 階段を降りると和音が待っていた。てっきり既に食堂に入り席を確保してくれているものとばかり思っていたから、私は少々驚いた。
 私は和音と並んで食堂へ入る。学校の食堂はセルフサービスで、コンビニのレジ横に置いてあるフライドポテトやから揚げアメリカンドッグが入っている棚のような冷蔵庫の棚があり(コンビニでは温めているのだが食堂のは冷やしている)、そこに入っている小さな皿に盛り付けられたポテトサラダやマカロニのサラダ、ほうれん草のお浸しなどを自由に取り出すことができる。
 おかずもコロッケやハンバーグ、白身魚のフライ、ササミなどがあり、それらにはキャベツの千切りが付いてくる。ご飯も大中小と三段階に別けられていて、女性や少食の人にも合わせている。セルフサービスだから、それぞれ一品ごとに料金が決まっている。
 コースや定食ではない。だからサラダを二個取り、あとはご飯だけということもできるしおかずとサラダだけという組み合わせも自由にできる。味噌汁もあった。
 また、それとは別に丼ものや麺類もある。丼はカツ丼や玉子丼、親子丼などがある。麺類はそばはないが、きつねうどんやすうどん、ラーメンなどはしょう油ラーメン、みそラーメン、塩ラーメンなどが揃っている。
 学食だから何と言っても安い。先のサラダ、おかず、ご飯、味噌汁という定食のような組み合わせをしても、五百円にも満たないのだ。私は、今日はご飯と味噌汁と、ポテトサラダとほうれん草のお浸しにした。レジで精算を待っていると、後ろから和音が来た。盆の上を見るときつねうどんだけだった。和音は食費を極力抑え、お金はもっぱらファッションに遣っているらしい。その趣味は私にはわからない。
 「そう言えばさっき長保さんに会ったよ」
 席に着いてから、和音が言った。
 「おはようございますーって愛想笑いして言ったのに、無視されたんだよ」
 「ふ〜ん…」
 私は彼の話は聞きたくなかったので席を立ち、ついでということにして、コップにお茶をいれてきた。これはセルフサービスで、しかも無料で提供されているからいくらでも飲める貴重なものだ。ただ、夏も冬も熱いお茶だ。私はそれでいいと思っているのだが、周りでは夏は冷たいお茶にしろよーという不平が上がっているらしい。文句があるなら飲まなければいい。これは学校の善意で提供されているものなのだ。いや、ひょっとしたら授業料とかにも含まれているのかもしれない。確証がないから、何とも言えないが。
 和音の分もお茶をいれ、席に戻ると
 「ああ、やっぱ麺類はうどんに限るね」
 と言ってちゅるちゅる吸っていた。幸せそうな表情だった。私が和音の前にコップを置くと、
 「ありがとう」
 と彼女は変わらぬ笑顔で言った。この一言が何とも嬉しい。中には、何を考えているのか、私がわざわざコップを取ってきてあげても、何も言わずに受け取る人がいる。ありがとうの一言くらい言って欲しいものだ。いや、言って欲しいというよりは言うのが当然だと思う。家族なら別だが、友人知人は赤の他人なのだ。「ごめん」や「すみません」と同じく、「ありがとう」も言えない世代なのだろうか。同世代の私が言うのもおかしいか。
 その点、和音は喜怒哀楽がはっきりしているというか、常に楽しそうに笑っているのだが、私は彼女のこういう無邪気なところが好きだ。感情表現が素直なのだ。例えて言っていいのかどうか、私のアルバイト先の子供達、幼稚園児を相手にしているようで楽しい。もちろん幼稚園児のようなかわいらしさがない分うるさいと感じる時も多々あるのだが(失礼)、基本的には和音は私の数少ない友人である、好きだ。
 「そうだ、香恵、今度家に来ない? こないだ借りたビデオダビングしたんだー」
 しばらくした後、和音は言った。少し解かりにくい日本語だった。レンタルビデオ屋さんでビデオを借りてきたのを、空のテープだか何かに上書きしたのかはわからないが、借りてきたビデオをもうひとつのビデオテープに録画した、と、和音が言っているのはそういうことなのだ。
 「一緒に観ようよ」
 笑顔で和音は言うが、どうせロボットアニメだろうと思い、私は
 「う〜ん、結構バイトが入ってて忙しいからいつになるかわからないけど…」
 と言った。すると和音は一日くらい休みあるでしょ? と言いたげな顔をしたので、私はそう言われる前に
 「あんたうどんだけで大丈夫なの?」
 と話題を変えた。大丈夫も何も、いつもそうなのだから大丈夫なのはわかっているのだが、私はロボットアニメなんて興味ないから、とかなんとか言って断わることができない。そういうつもりではないが、他人の趣味を馬鹿にするようなものだ。私は気が小さいから、怒られるのが恐い。触らぬ神に何とやら。
 「合奏とか、サックスは今回特に忙しいから、夕方にはお腹空くんじゃないの?」
 「そうなんだけどね、三時のおやつもちゃんと食べるから大丈夫だよ」
 厚揚げにかぶり付きながら和音は言った。
 「ああ、やっぱりこのジューシーな厚揚げが一番よね〜」
 やはり和音は幸せそうだった。
 「ジュワッと口に広がる鰹の風味…」
 目を閉じて、和音は自分の世界に浸っているようだった。
 「ダシが弱過ぎず強過ぎず…この絶妙なハーモニー」
 観ていて飽きない。
 「ほんと、きつねうどん様様だよね〜」
 ドンブリを両手で持ち、ズズズと汁をすする和音。
 たった百九十円のきつねうどんでここまで感動できる和音は本当に幸せ者だと思う。
 「ごちそう様」
 ドンブリを置き、最後にパチンと手を合わせてからお辞儀をする。実に行儀がいい。
 と、それはともかく、私の話題変更作戦は見事成功したのだった。
 「おいしかったようだね」
 私はマカロニサラダを箸でつつきながら、ニンマリと笑って言った。
 「がっつくように食べてたから」
 「香恵〜、イジワル言わないでよね〜」
 私はふと時計を見た。まだ十三時半。あと一時間半近くも空いている。
 「ところで、何でうちの大学のうどん、鰹ダシなんだろうね。東京なのに」
 和音が言った。
 「確かにね。でも、今の時代風習と、地方の文化ってもんが軽視されてるからね」
 「ああ、それはそうかもね」
 「ということは、ひょっとすると給食会社の都合なのかもしれないね」
 「ああ、関西の給食会社つかってたら東京でも鰹ダシになるのかもねえ」
 五時間目は十六時三十分から始まる。ちなみに体育だから着替える必要があるので少し早めに行かなければならないのだが、この大学、体育館は大学の敷地内にあるくせに、グラウンドは遠く離れた地にあるのだ。二キロ程度だが。それでも歩くと大変なので大学とグラウンドを往復する無料送迎バスに乗ることになるのだが、これに乗る時間も余裕を持ったとして、それでもまだ一時間もある。
 「香恵ぇ、これから何するー?」
 私が時計を見て溜め息をついたのに気が付いたのか、和音が言った。
 「う〜ん」
 と私は腕を組みひとしきり唸った後、
 「練習しようか」
 と言った。
 「えーっ」
 と和音はあからさまにいやな顔をし、
 「香恵はほんと楽器のことしか頭にないんだねえ」
 と不平を言った。
 私は苦笑いを浮かべたが、
 「だってすることないなら少しでも練習した方がいいでしょ」
 「そりゃたまになら練習でもしようっかなあって思うこともあるけどさあ」
 私の言葉を遮り和音が言う。
 「でも、時間が空くといつも必ず練習しようって言うじゃない。確かに香恵に比べたら私は楽器うまくは吹けないけどさ、それでもクラブの時間外の行動に関してとやかく言われたくないのよ」
 うっ。確かに前にもそれで学年会議を開いた事があった。何か問題が起こった時などにこの学年会議は催される。例えば、部活を辞めたいと、同じ学年の人が言い出すと、その理由を聞き、さらに辞めると言うのをわざわざ引き止めたりする。本人が辞めたいと言っているのだから辞めさせてやればいいのにと私は思うのだが。特に家庭の事情、離婚や両親のどちらかが死亡したとかいう経済的な事情である場合、そんなことをいくら同窓生とは言え他人である私たちに聴かせたくはないと思うのだが、残酷なことにこれが決まりだからと言って上級生は学年会議を開かせる。しかも彼らは何とか引き止めろと言うのだ。経済的な事情、家庭の事情でやむなく辞めるというのに、赤の他人がとやかく言う資格はないと思う。
 後はクラブ内の役職を決める時にも会議を開く。例えば会計や渉外、指揮や企画(これは演奏会の内容や照明の打ち合わせ、そして演奏会のパンフレットを作成するとき、後は合宿地の手配やそこでのレクリエーション等を考える)、さらに一般雑用の総務や当然部長や副部長という、いわゆる人選か。とにかく必ず、全員が何かしら役職に就かないといけない。ちなみに私は指揮者だ。二年生だから演奏会ではまだ振らせてもらえないが。
 と、そんなことはどうでもいい。
 その学年会議で、私たちが二年生に上がる時、私がいつもみんなに練習しろ練習しろと言うからクラブを辞めたいという人が出た。
 授業もなく、ご飯も食べ終わり、バイトもない暇な時間ができた時には、少しでも楽器が上達するように練習しよう、と私は皆に言った。最初は皆練習した。そして少しずつ上達した。しかし、六月と十一月の年二回ある演奏会の内、一回目の演奏会が終わった辺りから、皆練習しなくなった。と言うと語弊があるが、合奏の時間やその前の一時間ほどは皆楽器を取り出してきて練習する。音階やタンギングなどの基礎練習をして、それから曲の練習に入る。それはそれでいい。練習をしないよりは遥かにマシである。
 でも、それまでただお菓子をかじり、ボーっと何時間も部室のイスで過ごしたのでは何の意味もないだろう。ペチャクチャおしゃべりをしている人もいるが、それだって、環境汚染や教育問題、経済政策などに対する議論のような中身のある会話ではない。ただ昨日テレビで何を見たとか俳優の誰それが女優の何とかと不倫しているとか、全く自分たちとは無縁の、次元の違う話題で盛り上がっているのだ。
 そんな無意味な会話をするくらいなら、しっかり楽器の練習をした方がいいに決まっている。
 だから、私はその無意味な時間を無くすように言ったんだ。初めの方は、それこそ皆先輩たちの足を引っ張らないよう必死に練習していたが、一旦音や楽器に慣れてしまうと、というのは演奏会を一度でも経験したからという自負もあるが、途端に自主練習をしなくなった。これから練習するかどうかが勝負の決め所なのに、おしゃべりに華を咲かせたり、のんびりお茶したり、せっかく部室に来ているのにクラブに関係のないことばかりしている。だから私はそれを止めさせるべく練習時間を増やしたのだ。
 学年で、授業のない空いた時間に、学年で集まり、それぞれの楽器を持ち、円になるようにイスを並べ、メトロノームを真ん中に置き、ひとつの音を何拍間か伸ばすロングトーンの練習、一拍の間に二度に分けて音を出し、それから今度は一拍間に三度というように音の回数を増やしていくタンギングの練習等、基礎練習を私が仕切って執り行った。
 しかし私たちの学年は全員で二十名近くいる。全員が一同に勢揃いするのは滅多にない。あっても週に二度、それも時間は一時間くらいだった。それでも最初の一ヶ月は皆真面目に取り組んでくれた。最初の定期演奏会が終わり、グータラし始めた頃に喝を入れるつもりで私が吹奏楽にかける情熱をおおいに語ったら、皆がそれに協力してくれるようになったのだ。
 でも、それは初めだけだった。毎回、誰かが来ない。今回ひとり来なければ次にはもうひとり来なくなる。それが繰り返し、一ヶ月後にはわずか数人しか残らなかった。特に男の子が、さぼりたがった。やはり、他人が言うのではなく自分が吹奏楽に情熱を持たなければ練習に励まないということがわかった。
 だから、私は暇な時間は常にひとりホールでメトロノームを前に楽器の基礎練習をしていた。そして授業のない人は、と言っても同じ学年だけだが、授業のない人は一緒に練習しよう、という風に策を変えた。前までわずかながら残っていた数人の協力者も、前からこの曜日のこの時間はと決めていた時には必ず来てくれ、それ以外の暇な時にもたまに来てくれ、一緒に練習してくれた。
 しかし、やる気のない連中は放っておいて、というわけにもいかない。なぜなら二年後には私たちの学年がこのクラブを引っ張っていかなくてはならないから、それなり以上は最低限吹けないと下級生に示しがつかない。
 それに私はプロを目指している。この四年間が勝負なのだ。ちんたらしている余裕などない。
 一生懸命練習したのに本番でミスをしてしまったというならまだしも、何の努力もしないで人の足を引っ張るのだけは勘弁してもらいたい。
 うちのクラブの合奏練習は平日は毎日、午後六時から開始される。終わるのは七時半。それから自主練習する人はし、帰りたい人は帰るのだが、やはり授業のない暇な時間に私たちと練習をしてくれない数人の男子部員は、この合奏が終わるとすぐに帰ってしまう。これは上級生の学年会議でも問題にされ、それで、十一月に催される二度目の演奏会の一ヶ月前から特別に、合奏が終わった後でも二時間ほどは居残りして学年での練習が義務付けられた。これは学年が合同で曲の練習をするというわけではなく、各々が、ある者は曲の練習、またある者はロングトーンやタンギングなどの基礎練習、といったふうな練習をするのだ。
 義務付けられたと言ったが、これは上級生の命令ではなく、いや、他の人にはそう言うことにしておいて、本当は私がそうさせたのだ。上級生の会議のことを幹部会議と呼んでいるが、その幹部会議で決められたということにして、私が同学年の皆に話したのだ。というのは、私の意見だけでは皆はやる気になってくれない。それは一回目の演奏会が終わってから私が出した策が失敗したことでもわかる。
 それで、私も幹部会議に参加させてもらい、この案を出した。すると、渋々という感じではあったが承諾してくれて、それで今回幹部命令ということで合奏後の自主練習の時間を取らせることに成功したのだ。
 私と同じ学年の男子諸君はヘタクソで、というかそもそもやる気がないのかもしれない。命令、とした方が却って言う事を聞くようだった。
 「じゃあ練習しよっか」
 和音が言った。せっかくモノローグを使い説明をしていたのに、邪魔が入った形になった。
 「いや、まだモノローグの説明が終わってなくって…」
 と私が文句を言っても和音は頭に「はてな」を浮かべて首を傾げるだけだ。
 「ほんとはしたくないんだけどね、しょうがないから練習しよっか」
 和音は言い、席を立つ。その仕草は本当に嫌々というのが見てわかった。
 立ち上がる時イスをガガガと音をたて、歩く時はさっさと機敏に歩いたが食堂のお盆を返却する時、まるで放り投げる様にバンっ、と置いたのだ。
 「何をそんなにカッカしてるの?」
 と私は訊いたが、和音は何でもないと答えた。何でもないわけないでしょうが、とは思いながらも、これ以上この話を続けたら和音に怒られそうな気がしたので止めた。
 私はつい今しがたまでモノローグの途中だった。
 その収拾をどうやってつけようか考えたが、とにかく結論だけ言うことにして、和音と一緒に楽器の練習をすることにしよう。
 私がモノローグで言いたかったことは、学年会議で、私が学年の部員の時間を束縛、拘束するからクラブが嫌になったという問題が起こった、ということと、そのせいで部員が何人か辞めてしまったということだ。それから、あまり練習に関してゴチャゴチャ言わないということを約束させられたのだから、今ここで和音を怒らせるようなことをしたら、または次に誰か部員が辞めたいと言い出しその原因が私だということになったら、私がこのクラブから追い出され兼ねないのだった。
 私は、和音の機嫌が悪い理由に気付いていた。

 私と和音は言った通り、その後ホールへ上がり楽器の練習をした。楽器を倉庫から取り出し(楽器は用心のため全て倉庫に保管して鍵をかけている)、私はホルンのラッパの部分を本体に取り付け、マウスピースをトイレの洗面で洗い、イスに座りさあ吹こう、と思ったら、時間はすでに十六時になっていたから、結局曲の練習はできず、基礎練習だけ十五分ほどして止めた。
 今、私と和音はグラウンドへ向かうバスの中にいる。座っている位置は(わざわざ言うほどのことでもないが)、バスの真ん中辺りに和音とふたりで並んで腰掛けている。
 和音は食堂を出る時にはひどく機嫌が悪そうだったが、楽器の、アルトサックスの練習に入るとそれにすぐに熱中し、バスに乗っている今では
 「体育終わったらまた食堂行こうね」
 などと笑顔で言っている。
 まあ育ち盛りを多少過ぎはしたが若いことには変わりなく、元気があるのはいいことだろうと思うので私はそのことに異議はない。
 などと言っている内にグラウンドに着いた。早速私たちはバスを降り、体育館に入り、中の女子更衣室で着替える。と言っても体操服ではない。ここは大学であって高校ではないのだ。
 大学では「動きやすい服装」なら普段着でもいい。まあ着古したTシャツなどが多く学生に着られているようだが、下は必ずジャージでないといけない。
 私と和音はしっかり着替え、準備も整ったので外に出た。今日は晴れているのでグラウンドで授業だ。そもそもここの体育館は雨天用の建物で、晴れている時などは更衣室用にしか使用されていない。というのは、講義用の校舎のある敷地内にも体育館が存在するから、こっちの体育館は本当に雨天用の、言わば予備の体育館なのだ。
 私と和音は、テニスを受講している。
 未だにルールもよくわかっていないし、私は今自分がやっているテニスが硬式なのか軟式なのか、区別もついていない。とにかく和音とダブルスを組んでいる。
 さあ、コートに着いた。というわけで、私と和音はネットを挟んで向かい合い、ボールを追いかけっこし始めた。というのは、授業が始まっても先生は基本的に学生を集めない。そのまま自然に学生同士で試合をやらせる。それを先生が見回りつつ出欠を確認する。少しでも試合の時間を取りたいというのが先生の考えの基らしい。
 ポーン、ポーンと私と和音はボールを打ち合う。いたって軽く、あまり走らなくて済むように遊んでいた。すると、後ろから私に声を掛けてきた男の子がいた。
 「片面借りていい?」
 と、その男の子は馴れ馴れしく訊いた。
 「いいよ」
 私はぶっきらぼうに応えた。私が所有するコートではないのでダメとは言えない。本当は、初対面でこんなに馴れ馴れしく話し掛けて来る男は私は好きではないから派手に断わってやりたいが、授業だからしょうがない。
 コートの半面というのは縦に半分に切るわけでもネットまでの半分まででもなく、ネットを挟んで斜めに切るのだ。クロスさせてボールを打ち合う。
 でも私も和音も、そしてもちろん隣りの男とその相手も素人なわけだから、そう上手くクロスさせられない時がある。私が片面の狭い範囲の中で必死にボールを打ち返していても、うまく和音のところには返せなく、その隣りにいる男の邪魔をすることになったり、または私の隣りの片面で打っている男の相手が打った玉がたまたま私の面の方へ来たとしても、そしてその玉を取りに私の前に横から現れたあの馴れ馴れしい男の後頭部に私が打った玉がパコーンと当たったとしても、それはただの偶然の事故であって、決してわざと狙ったわけではないのだ…。
 「いやあ、あの一発は痛かった」
 もう授業が終わり、バスで大学まで帰るという頃、車内であの馴れ馴れしい男が話し掛けてきた。
 「ああ、ごめんねえ。コブになったりしてない?」
 私は笑いを隠さずに訊いた。
 「コブはできてるよ。思いきり当たったから」
 狭い車内で、私とその馴れ馴れしい男、そしてその相方(という表現はちょっと違うが、とにかくテニスの時のコンビだ)、さらには和音も一緒にワイワイガヤガヤと、喋っていた。
 「そう言えば、井元さんっていうんだって?」
 馴れ馴れしい男が訊いた。私は和音と隣り通しに座って、馴れ馴れしい男とその相方は私立ちの座席の後ろに座っていたから、彼は身を乗り出して私たちに話し掛けてくるのだ。
 「何で知ってんの?」
 「同じクラスだからだよ」
 大学の授業にはクラスはないが、英語やフランス語などの語学、学部の必修科目、あとは体育にもクラスがある。クラスとは学籍番号の若い順から大学側がある人数毎に決められた区切りのことだが、その決め方は知らない。
 大学の授業はそのほとんどの講義を学生の自由で選べる。しかし学生全員が必ず取得しなければならない科目というものもあり、それにはクラス別で受講させた方が早い。それが語学の授業であり、この馴れ馴れしい、頭に私が打ったボールがパコンと当たった男の言う同じクラスというのは、まさにこの英語のクラスのことで、どうやら授業の時に私を見た事があるらしい(私はこの男を見た記憶はない、というのはきっと私は他人のことなんて見ていないからだろうな)。
 「じゃああんたの名前は?」
 私が訊くと、
 「井上章伸」
 「え、『い』ってことは、私のすぐ前じゃん」
 「そうだよ。まさか知らなかった?」
 怪訝そうな顔で馴れ馴れしい井上が言った。
 まさか私のすぐ前だったとは…。
 同じクラスとは言え私はこの男の顔も知らないのだから、きっと同じ教室にいても離れた席に座っているのだろうと思ったが――語学の授業は出席番号(イコール学籍番号と思ってくれていい)順に席に座るから、他の授業なら自由に席に座れるものを、この語学の授業だけは席替えでもしない限り毎週決まった席に座らなくてはならない――まさか普段語学の授業で私のすぐ目の前に座っているとは…。よっぽど私は周りを見ていないということか。そういう次元も超えているような気もしないではないが…。
 「そう言えば顔を見てもわかんなかったみたいだしねえ、香恵?」
 私の横で和音が意地悪そうな顔で言う。とりあえず私は批難の目で和音を見た。何もそんなことを言わなくてもいいじゃないか、という批難である。
 「うるさいわねえ、私は授業を受けに来てるんだから、周りの人間なんて一々見てないのよ」
 「とか言いながら机には楽譜広げてんでしょ」
 「ぐっ」
 鋭い…。さすが高校からの付き合い。よくわかってる。
 「そう言えば井元さんて吹奏楽部なんだってね」
 井上が言った。
 「…何で知ってんの?」
 怪訝そうな顔で私が訊くと、
 「あ、俺きみらの先輩の長保と、高校の同級生なんだ」
 「え!?」
 それを聞き私と和音は同時に声を上げた。
 あの長保と同級生?
 「でも、香恵と同じクラスでしょ? 井上くんて、もしかして浪人したの?」
 和音が不遠慮に訊くと、井上は苦笑いを浮かべて頷いた。
 しかし、あの長保と知り合いか…。彼は井上くんにどんな噂を流したのだろうか。少なくとも、長保も私が自分の高校の同級生だった井上が今同じクラスだということは知っているだろう。私が吹奏楽部だということを、井上くんが長保から聞いたのであれば。
 やだなあ。もうこんな人と話したくないよ。あの人と関係しているなら、こんなにお喋りするんじゃなかった…。
 私はもう後ろを振り向かず、ずっと座席に深深と座り、窓の外を眺めていることにした。
 横では和音がまだ後ろの井上くんとそのお供の人(?)と喋っているようだったが、私はもう聞く耳を持たない姿勢をとった。
 そう言えば食堂に行く前、部室で長保に会った。そして私は彼を怒らせてしまった。でもそれは後悔していない。練習しないで合奏の時みんなに迷惑をかけているのはあいつなのだ。誰かがビシッと言わないといけないのである。
 しかし、その日の放課後、部活に長保は出て来なかった。
 昼は来ていたのに、と上級生は言っていたが、結局なぜあいつが今日の合奏に出て来なかったのか、誰も知らないらしい。
 しかし、合奏の最中に本人から部室に電話があり、私がゴチャゴチャと文句を言ったから今日は休む事にしましたと、部長に言ったらしい。
 情けないと思ったが、今日は彼が出て来なかったので、私にとっては充実した合奏練習だった。指揮者の先輩もうまく進行ができて満足している風だった。


    to be continued
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