第一章:春
    一

 従姉弟の綾子が家に来て、既に三週間が過ぎようとしていた。その間、綾子はずっと家にいて、実家から届いた荷物の荷解きをしたり、昼の間街を見て周るのに俺を連れ回したりして時を過ごした。
 ちなみに望月は、あの時言ったように俺の家では住んでいない。すぐにはっとした様子で、冗談だよ、と取り繕ったような笑顔で言った。それから俺は、望月と会っていない。
 「ふあ〜〜〜あ」
 俺が部屋を出ると、ちょうど向かいの部屋から出てきた綾子と出くわした。瞬間、綾子のあくびの現場をはっきり見てしまった。
 「あ」
 綾子は急いで口を閉じ、照れ笑いを浮かべておはようと言った。
 「ああ。今起きたのか?」
 俺が訊くと、
 「うん、よう寝た〜」
 そして俺の服を見て、
 「カオちゃんは、なんで休みの日に制服着てるん? 制服フェチなん?」
 「なわけねえだろ。今日はうちの高校の入学式なんだ」
 すると綾子は驚いた顔で、
 「入学式? カオちゃん留年したん?」
 と言った……。
 「留年しても入学式には普通いかねえだろ……」
 「あ、そかそか。んななんで? 全員出なあかんの?」
 「いや、三年は全員出席だが、俺たち二年は別に出なくてもいいんだ。というより体育館のスペースの関係で出るなと言われてる」
 「まあ……新入生とその親御さんで倍にはなるもんなぁ」
 少し考えるような、天井を見上げて言い、視線を俺に戻し
 「だからなんでカオちゃんが行くん?」
 「知り合いが入学するからだよ。俺は在校生として参加するんじゃなく、保護者の椅子に座るんだよ」
 「ふ〜ん……」
 「あ。それでな、終わったら望月とその子でささやかながら入学祝するから」
 「ふみちゃんと? その子? 入学祝?」
 途切れ途切れに綾子は疑問詞をつけ、
 「その子って、ことは、女の子なん? 入学祝はどこでするん?」
 と次々に質問を投げ掛ける。
 「ああ。その子ってのは女の子で、俺と望月の妹のような存在。入学祝は家でするんだ。ここでね」
 すると綾子はなぜか口を半ば開けたままで硬直した。俺は頭に「?」を浮かべて彼女を見ていたが、何も声を掛けることはなかった。というのも、ここで来客を知らせる玄関のチャイムが聞こえたからである。
 「あそうだ。今日は母さん仕事行っていないから、メシは自分で作れよ」
 と俺はまだ固まったままの綾子に言ってやった。
 ドアを開けると、予想通り、そこに立っていたのは俺と同じブレザーの制服を着た望月だった。と言っても女子はスカートだが。
 「おはよう」
 「ああ」
 朝の挨拶を交わす。俺と望月はあの日から会っていない。とはいえ、今日のことで電話連絡はした。隣り同士に住む中で、たかが三週間とは言え顔を合わさなかったのは珍しい。
 「聡子ちゃんは?」
 望月に訊くと、
 「今日はお母さんと行くって。晴れ姿を見てもらいたいって言ってたから」
 ま、一生に一度しかない高校の入学式だからな。
 「じゃ、行くか」
 「うんっ」
 俺たちは学校に向かって歩き出した。
 俺が通っている高校は、入学式の次の日が始業式となっている。だから今日までは他の生徒は休みなのだ。ま、一日くらい短くても俺は気にしないが……。
 二週間休みのうちの一日だからな。週に一度の休みを返上、というのは納得いかないが、これなら我慢もできるというものだ。いや、聡子ちゃんの晴れ舞台を見るためなのだ。週に一度の休みだって喜んで返上する。
 学校に着くと、そのまま催し会場の体育館に向かう。校門の周りには既に保護者連れの新入生が、なれない制服を着て緊張している姿がそこかしこに見えた。これからの高校生活に、不安と希望を抱いているのだろう。そんな複雑な表情をしている。
 「あ、おにいちゃ〜んっ」
 少し離れたところから俺を呼ぶ声がした。もちろん聡子ちゃんである。聡子ちゃんは、おめかしをした母親と一緒に立っていて、こちらに向かって大きく手を振っていた。
 俺と望月は小走りに近寄り、聡子ちゃんとお母さんに挨拶をした。
 「ほら聡子ちゃん、薫くんだけじゃなくてふみちゃんにも、ちゃんと挨拶しなさい」
 と、聡子ちゃんのお母さんは優しげな笑みを浮かべて言った。すると、
 「いいんですよおばさん、聡子ちゃんは薫くんのことしか見えていませんから」
 望月がからかうような口調で言い、聡子ちゃんは慌てたように
 「そ、そんなことないですよーっ。お姉ちゃんもおはようございます」
 と頭を下げた。
 クスクス笑う望月と聡子ちゃんのお母さん。俺はいったいどういうリアクションを取ればいいのだ? わからなかった。
 不意に放送が流れ、それは新入生のクラス発表が行われると言った。そこで聡子ちゃんは体育館に行く前に、教室で新しい友達との最低限の挨拶を交わすようなので、俺と望月、さらに聡子ちゃんのお母さんは、先に体育館の保護者用の席に座って待つことにした。
 俺たちはまだ少しあった空席から三つ並んだ場所を選び、そこに座った。ステージに向かって横に並べられた椅子たちのちょうど中央を、モーゼの十戒のように割れた空間が走り、そこを新入生たちが行進してくるという仕組みである。
 俺たちは、彼らが行進する側の端っこに座っている。ここからなら聡子ちゃんの勇姿もよく見える。真横を通るんだから当然だ。
 「聡子ちゃん、私たちに気付くかなあ?」
 そこから三番目に座っている望月が楽しそうに言った。ちなみに真ん中に座っているのは聡子ちゃんのお母さんだ。娘の勇姿を見せるため、お母さんにその席を譲った。俺は、ふたりの女性に挟まれて座る形になる。
 体育館の椅子に落ち着き、そろそろ三十分ほど経つと思う頃、後ろの方で盛大な拍手が聞こえた。見ると、高揚させた顔で堂々と前を見て入ってくる新入生たちの姿があった。
 俺たちも拍手に参加し、聡子ちゃんの姿を探した。
 しかし、俺たちは聡子ちゃんのクラスを確認するのを忘れていた。訊かずに体育館に上がってきてしまったのだ。
 こうなると悔やんで見てもしょうがない。ひとりひとり眼で確認しながら探すしかない。
 「聡子ちゃんどこかなあ」
 お母さんも拍手しながら頭をひょこひょこ動かしている。
 しかし、クラスごとに男女並んでひとりずつ、計ふたりが一度に入ってくるので探しやすい。これが四、五人も並んで入ってきたらひとつの顔を見つけるのは難儀だったが、その点は他の保護者もそうなのだろうから、学校側も考えている。
 「あ、いたっ」
 望月が歓喜の声を上げた。その声は周りの拍手の音にかき消されたが、俺や聡子ちゃんのお母さんにはしっかり聞こえた。
 「ほんとだ、いたっ」
 お母さんも喜んだ。手を振ってみたりするが、聡子ちゃんは気が付かないようだった。それどころか、あらぬ方向をきょろきょろと見ている。どうやら俺たちを探しているようだが、見つからないなあと考えているのだろうか。その姿はまるで小学生のそれのようだった。
 俺は横の望月を肘で突つき、俺と望月は聡子ちゃんに向かって手を大きく振った。まるで地上に取り残された避難民が、空の救助隊にSOSを求めるように……。
 ちょうどこっちを見た聡子ちゃんは俺たちに気付き、笑顔を浮かべて手を振り返してくれた。お母さんは手に持った袋から何時の間にかカメラを取り出していて、俺たちに手を振る娘の姿を写真に写した。
 ここからは例によってつまらない校長の話が続くので省くとして、聡子ちゃんは、退場行進の時にも俺たちに笑顔で手を振ってくれた。
 待ちに待った式も終わり、俺と望月、そしてお母さんは昇降口の前で聡子ちゃんが出てくるのを待つ。
 「あ、そう言えばこのあと薫くんの家でパーティーするんだよね」
 と、聡子ちゃんのお母さんが言った。
 「ええ。ささやかですけど、入学祝いに」
 俺が答えると、横で望月が
 「おばさんも来ますか?」
 と訊いたが、お母さんは首を横に振り、
 「いいええ、それは若い人たちに任せるわあ」
 と笑い、
 「それじゃ、わたしは先に帰ろうかな」
 と思い出したように言った。気を遣っているのかもしれない。
 「じゃ、聡子ちゃんのことヨロシクね。晩御飯までに家に帰ってくればいいから」
 言いたいことだけ言うと、聡子ちゃんのお母さんは俺たちに手を振って帰って行った。
 俺と望月はそれぞれで別れの挨拶をし、聡子ちゃんのお母さんを送り出した。
 周りを見ると、両親揃って子供の晴れ姿を見に来ている人もいた。俺は暇だと感じていたなので、そういう周りの人たちを眺めることにした。
 ふと、横を見ると、望月はどこか遠くを見ているような目つきでいた。
 「何見てるんだ?」
 と訊くと、
 「ん。あそこの子供を見てるの」
 望月は答え、そちらを指差した。
 その指の先にあったのは、三歳くらいの男の子で、ひとりでしゃがんで地面をいじっていた。その隣で、その子のと思われる女性が、一緒にいる男性と楽しそうに話していた。両親なのかもしれない、と俺は見当をつけた。
 「地面にしゃがんで、何してんだろうな」
 俺が言うと、
 「さあ。手には何も持ってないよね。でも、何かして遊んでるんだよ」
 と、望月は目を細めて微笑んでいる。
 「かわいいねえ」
 望月は目を細めたままの優しい笑顔で俺を見上げた。
 そうだ。望月は子供が好きだった。自分が子供の頃から、自分よりも小さい子をかわいがっていた。そのひとつの例が聡子ちゃんである。
 小さい頃から甘えたな聡子ちゃんは、いつも望月か俺に甘えていたが、特に望月には母親よりも一緒にいる時間が多かったかもしれないせいか、いつも手を繋いで遊んでいた。まあそれは俺たちの両親たちの仲が良いせいもある。そう言えば学生時代からの友人だと、親父に聞いた覚えがある。
 そんなわけで、俺と望月、そして聡子ちゃんの三人は、本当の兄妹のように育ってきたのである。
 そうか。そんな俺たちも、もう高校生である。時が経つのは早いものだと痛感する。
 来年は俺も望月も高校三年生である。将来のことを考える時期がやってくる。再来年には仕事をしているか、大学に進んでいるか、専門学校に通っているか……(浪人は考えない)。
 今が一番楽な時期かな、と、俺は自嘲気味に笑った。
 「あ、なんか校舎内が騒がしくなってきたよ」
 望月の言葉で俺は我に返った。なるほど、確かにざわざわした声が近づいてきている気がする。
 「あ、お兄ちゃん」
 靴に履き替え出てきた聡子ちゃんは俺を見つけ、駆け寄ってきた。
 さあ帰ろう、ということで、俺たちはさっさと学校から離れることにした。
 俺の家に向かう道すがら、俺と望月はこれからの聡子ちゃんの高校生活が心配だから、
 「担任は優しそうか?」
 とか、
 「友達できそう?」
 などと別に心配するほどのことでもないことを訊ねたりしたが、当の聡子ちゃんはというと、
 「うん、担任の先生は、どうかな、結構気合い入ってる感じしますけど、優しそうな気はしますよ。友達は、中学の時の同級生とかもいたから、できないことはないです」
 と真面目に答えてくれた。
 そして、家に着き、俺が玄関のドアを開け先に聡子ちゃんを中に入れると、
 「うわあっ」
 と、聡子ちゃんが驚いたような声を上げた。何事かと俺が顔を覗かせると、
 「何じゃこりゃあっ」
 自分の家なのに思わず叫んでしまった。
 なんと、玄関の靴を脱ぎ捨てる空間や靴箱の上などの壁の至るところなどに、折り紙で作った鎖や星型などが飾り付けしてあるではないか。それが、廊下に沿って真っ直ぐ続いている。
 誰がしたんだ。俺じゃないし、両親は仕事に行ってるからできるわけがない。
 「わあ、すごいねえっ」
 最後に入った望月も感心している。
 すると、ひょこっとキッチンの方から顔を出したやつがいた。
 「あ、おかえり。意外に早かってんなあ」
 家に居候している綾子だった。綾子は玄関まで俺たちを迎えに来た。なぜかエプロンをしている。
 「あ、この子が知り合いの子なん? こんにちわ」
 綾子は素敵な笑顔で挨拶をした。しかし初対面の聡子ちゃんは、これが誰なのかわかるはずもなく、なぜお兄ちゃんの家に知らない人がいるんだろうと考えているのだろうか、ただ混乱しているような顔を俺と綾子の交互に向けるだけだった。
 「聡子ちゃん、こいつ、俺の従姉弟で、由利綾子。綾子、この子は筧聡子ちゃん。近所に住んでて、今年から俺たちの高校の後輩になった子」
 俺はふたりに、簡単に紹介した。
 「よろしくー」
 言いながら綾子は握手を求める。そう言えば望月の時も握手を求めていた。ひょっとしたら綾子は握手が好きなのかもしれない。……変な癖だな、と思うのは俺だけだろうか。
 「…あ、お兄ちゃんの従姉弟なんですか?」
 まだ頭がすっきりしない聡子ちゃんは、それでもようやく理解できたらしく、早口に訊いた。
 「お兄ちゃん?」
 という言葉を聞き咎め、綾子は俺に向かって、
 「何やカオちゃん、聡子ちゃんにお兄ちゃんなんて呼ばせてんねや」
 とからかうような口調で言った。
 どう返していいかわからない俺は、
 「そんなことよりお前、この飾り付け、全部ひとりでやったのか?」
 と話題を逸らし、何とかごまかした。
 「当たり前やん。今日はウチしかおらへんかったやろ? なら、ウチしかやる人おらんやん」
 と目を丸くして綾子が言った。
 「まあええわ。はよ入り。ほら聡子ちゃん、今日はあんたが主役やからね、どうぞどうぞ」
 綾子は初対面でそわそわしている聡子ちゃんの背中を押して奥へ連れて行った。
 ダイニングには、とんでもないことが起こっていた。
 テーブルの上に並んだ豪華な食事。これはいったいどういうことだ? 綾子が作ったのだろうか。まさか出前なんてことはないだろう。
 鳥のから揚げ。ポテトフライ。手羽先にエビフライ。そしてサラダだけの皿もある。握りも少しだけ置いていた。
 望月も聡子ちゃんも、口を開けてぽかんとしている。
 「まあたいしたもんないけど、食べてな」
 綾子が言った。
 「たいしたもんて…これ全部お前がつくったのか? 出前じゃなく?」
 「ん? うん。ほとんど冷凍もんやねんけどね。フライパンで一度炒めたやつもあるし、一応全部火通したから安全やで。サラダと握り以外は。あ、握りは、近所のスーパーで買ってきてんで。ウチが握ったんちゃうから」
 などと綾子はとんでもないことをさらりと言ってのける。なぜただの冷凍食品をこんな風に調理できるのか。料理のできない俺の理解の及ぶところではなかった。
 とにかく俺たちは唖然としながらも席に座り、まだキッチンで何かしている綾子を待った。
 「お待たせ」
 と言って彼女が手にしてきたのは、缶ビール二本だった。そしてグラスが四個。
 「おい、綾子お前――」
 「何やのよ。お祝いやねんからビールくらいええやん」
 と言ってグラスをみんなに配り、まずは聡子ちゃんからな、と言いながら彼女にグラスを持たせ、四分の一ほどだけビールを注いだ。俺も望月も、綾子もみな同じ量だった。
 「まあウチら未成年やし、今日はこれだけにしとこうな」
 なぜか初対面の綾子が場を仕切っていた。
 「ほな。聡子ちゃんの入学を祝して」
 俺たちはグラスを掲げて、
 「かんぱーいっ」
 かちんと鳴らし、ぐいっと呷る。
 プハアー。見ると、綾子と俺は飲み干しているが、望月と聡子ちゃんはちょっと口をつけた程度でテーブルに置いていた。
 ま、初めて飲んだビールならそれがいい。俺は思った。
 「へえ。聡子ちゃんてカオちゃんとは小さい頃からの知り合いなんや〜」
 手羽先をかじりながら、綾子は聡子ちゃんと話していた。聡子ちゃんは人見知りをする方だが、どうやら底抜けに明るい綾子とは打ち解けたようだ。ぎこちなかった笑顔も、何時の間にか自然になっていた。
 その後、食事を終えた俺たちは、リビングでトランプなどのカードゲームをして騒いだ。
 四人もいるからできるばば抜き。七並べに大富豪。ダウトに豚の尻尾。思いつく限りのゲームをやった。
 そして時間に気が付くと、既に辺りは暗くなっていた。
 「うー。帰りたくないよお」
 聡子ちゃんは泣き出しそうな顔で言い、
 「でも晩御飯には帰るようにって、お母さん言ってたよ?」
 望月はそんな聡子ちゃんを宥めた。渋々といった感じで聡子ちゃんは頷き、それで今日の入学祝は、ようやく解散との運びになった。
 隣に住む望月にはいらないが、歩いて二分ほどの距離にある聡子ちゃんの家には、俺が送って行くことになった。たった二分だが、用心に越したことはないのである。
 「今日はありがとうございました」
 聡子ちゃんの家に向かう途中、聡子ちゃんが改まったように言った。
 「すごく楽しかったです。ほんとにありがとうございました」
 深深と頭を下げる聡子ちゃん。そうまでされると、俺の方が慌ててしまう。
 「いや、いいよ聡子ちゃん、料理つくったのは綾子だし、楽しかったのは俺もだから」
 「またみんなで遊びたいですね」
 別れ際、門の中で聡子ちゃんが言った。
 「明日からも、またよろしくお願いします」
 それに対し、俺はこう答える。
 「もちろん。俺の方こそよろしくな。弁当食べに来なよ」
 その提案に対し、聡子ちゃんはこぼれんばかりの笑顔で頷き、そのあとさよならと言って家の中に消えて行った。
 「………」
 しばらくそのまま動かなかった俺は、何かの余韻に浸っていたのかもしれない。
 俺はさっと踵を返し、洗い物の残る我が家へと歩き出す。
 今日は本当に楽しかった。これからも、こんな風に騒げたら楽しいのにな。
 俺は、心なしか身が軽くなった気持ちで、ただいまと元気に言いながら家に入った。


    to be continued
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