二

 一日明けた翌日。俺は日が昇る頃に目が覚めた。
 起きたかったわけではない。ただ、何となく目が覚めてしまった。原因のひとつは、横のベッドで眠る吉田の、高鼾のせいではあるだろうが。
 カーテンを開け、外を見る。
 一面に広がる海。そこに、今、まさに太陽が昇り始めた。
 夕焼けとは微妙に違う、赤く燃える太陽が、水面にキラキラ輝いて見えた。
 急に、散歩がしたくなった。
 こんな景色を見せられて、じっとしていられるわけがないのである。
 手早く着替え、部屋を出ると、まっすぐエレベーターに向かった。ここは、七階。七〇四が、俺と吉田の部屋である。隣りの七〇五が、望月、穴山さん、綾子、聡子ちゃんの部屋となり、その向こうの七〇六が、聡子ちゃんの母親の部屋となっている。
 午前四時三十分。廊下には、誰もいなかった。前の日に、あれだけ騒いでいながら、こんな朝早くに起きてくる観光客も珍しい。
 七〇五、七〇六と、素通りし、エレベーター乗り場に向かう。すぐに、上がってきた。一階に着きフロントの前を通ると、
 「おはようございます」
 という、青年紳士の静かな挨拶が聞こえた。顔を向けると、
 「よく、眠れましたか?」
 と、青年紳士は微笑を浮かべて訊いた。高校生の集団が泊まりにきているということで、俺たちのことは、ホテルの従業員たちの中ではそれとなく有名になってしまっているようだった。
 「ええ。昨日はしゃぎ過ぎたんでね、もうぐっすり」
 俺も、笑って言った。
 しかし、俺は日の出を見に来たのであって、フロント係りの青年とおしゃべりに興じに来たわけではないのだった。挨拶はそのぐらいにして、俺は玄関ロビーを出る。
 海辺の道路に沿って、ホテルが建っている。外に出た瞬間、日の出が俺を迎えてくれた。それは、夕陽とは違い、一種の力強さが感じられた。
 今日も一日みんなに灼熱を浴びせてやろう、とでも言う、力強さである。すると、夕陽は残り火ということになるな。
 俺は、道路を渡り、堤防に沿って散歩することにする。太陽が、眩し過ぎるのだ。直視は、既にできない状態にあった。
 駅に向かってもしょうがない。まだ見ぬ先を探索するため(というほどの目的もないが)、俺は歩き出した。
 風は、まだ涼しい。しかし、今日も暑くなりそうだ、という予感はある。
 静かな道路。まだ、通行人もいない海岸沿い。内陸に目を向けると、そこは山が連なっている。山と海に挟まれた町、それが熱海である。
 さすがに、温泉は広く、気持ちがよかった。昨夜、吉田と一緒に入ったが、奴と湯船の中を泳ぎ回って遊んだ。それくらい広い。多少、周りの人に迷惑をかけたかもしれないが、彼らも子どもの頃には温泉や銭湯で泳いだことがあるはずだ。この、俺たちの気持ちはわかってくれるだろう。
 しかし、彼らにお湯をかけることはなかった。なるべく、静かに泳いだつもりである。
 二十分ほど歩き、俺はホテルに戻った。五時には、まだ少しだけ時間があった。
 「おかえりなさいませ」
 先ほどの青年紳士が、俺に気付いて言った。さすがプロだ。高校生の俺に対しても尊敬語だ。何か、ご主人様になった気分がする(?)。
 エレベーターに乗り、七階で降りる。ドアが開いた瞬間、一歩踏み出そうとした足を引っ込めた。
 「あれ? 薫くん」
 「お兄ちゃん」
 望月と、聡子ちゃんがいた。ふたりとも、ちゃんと着替えている。望月は水色のVネックのTシャツ。首周りと襟は白である。それにジーンズを穿いている。頭のカチューシャは望月の代名詞であり、必ず着用している。聡子ちゃんは、襟周りにひらひらのついたピンクのワンピースを着ている。お嬢様だな。小学生にも見えないことはない……。
 「よう」
 俺は、そう言うことしかできなかった。
 「おはよう、薫くん」
 「お兄ちゃん、おはようございます」
 ふたりとも、笑顔で挨拶。こんな朝早くに、ふたりと会うのは初めてだろう。それも、散歩をしてきた帰りの、爽やかな気分が俺を包んでいる時にである。
 「どこ行くんだ?」
 俺が訊くと、
 「聡子ちゃんと散歩に行くの」
 「へえ、俺も今行って、帰ってきたとこなんだ」
 俺が言うと、望月は我が意を得たりという顔になり、
 「やっぱり、薫くんも散歩してるんじゃないかなあって思ってたの。薫くん、詩人的なところあるから」
 「……何?」
 詩人?
 「お兄ちゃんも一緒にどうですか?」
 聡子ちゃんが言うが、俺は今帰ってきたところなのである。
 「いや、俺はいいよ。今帰ってきたとこだから」
 手を振って、俺はエレベーターから降りた。
 「じゃ、夜遅いわけじゃないけど、気をつけていけよ」
 「はーい」
 「じゃあね、薫くん」
 エレベーターのドアが閉まった。
 気をつけろというくらいなら、ついてきてくれてもいいのにね、と箱の中でふたりは言い合っているかもしれない。
 部屋の前まで戻り、思い出した。俺は、鍵を持っていない。中に吉田がいるから、持って出るわけにもいかなかったのである。今は、五時。奴が起きてるわけもない。
 チャイムを鳴らす。が、案の定返事はなかった。
 しょうがない。俺は踵を返し、エレベーターに向かった。もう少しだけ、散歩を続けてもいいかもしれない、と思い始めていた。
 急いでエレベーターに乗り、降りる。フロントの前を通りすぎたところで、ちょうど玄関を出るふたりの背中を見ることができた。ふたりは歩くのが遅い。
 「おーい」
 外に出たところで呼ぶと、ふたりは一緒に振り返った。俺が呼んだと、わかったからだろう。
 「薫くん、どうしたの?」
 ふたりともきょとんとしている。俺は、鍵を持っていないから締め出された状態だということは言わず、
 「もう少し散歩しようかなって思い直したんだ」
 「やったぁっ」
 何も知らない聡子ちゃんは、手放しで喜んでくれた。
 しかし十分ほど歩いただけで、俺たちはホテルに戻った。日差しが思ったより強く、半袖のふたりが露出した肌が焼けることを気にしたのである。
 部屋に戻れない俺は、ふたりを何とかロビーに連れ込み、そこでおしゃべりをすることに成功した。望月と聡子ちゃんは、ちゃんと部屋の鍵を持って出ていたらしい。
 「だって、ふたりともまだ寝てるもん。戻っても起きてなかったら入れないじゃない」
 ふん。俺が馬鹿だと言いたいのか。
 「お兄ちゃんだって持って出てきたんですよね?」
 にこにこした聡子ちゃんが訊いた。
 「あ、当たり前じゃないか、あはははは」
 俺が笑うと、聡子ちゃんも声を上げて笑ってくれた。笑って誤魔化すとはこのことだ。
 「笑うことでもないと思うけど……」
 望月は人差し指を顎に置き、不思議そうに首を傾げていた。バレたか……?
 俺たち三人は、ホテルのロビーでおしゃべりに興じた。無邪気な聡子ちゃんがいるというだけで騒がしくなるわけだが、まだ他に客が起きてくる時間でもないし、チェックインの時間帯でもないし、この広い空間が俺たちの貸し切りのような状態だった。
 ラウンジのような空間が設けてあり、テーブルと、小さなソファの群れが、そこかしこに散らばっている。都会のホテルでは、待ち合わせなどで利用されるのだが、こんな田舎では利用客以外訪れることはないのから、こういう空間もあまり必要ではないような気がする。しかし、今の俺たちはここで話すしかないので、こういう設備があってよかったと思った。
 色んな話をした。
 昨夜の、食事の時の話、解散してから、部屋で何をしたのかとか、温泉の中での話。ほとんどが、聡子ちゃんの独演状態だった。
 聡子ちゃんは、一人っ子である。こんな風に、大勢で食事をしたり、一緒に寝たり、風呂に入るということがない。だから、今回の旅は聡子ちゃんにとって、楽しいもの以外の何物でもないようなのだ。
 聡子ちゃんがこんなに喜んでくれているのだから、俺も嬉しくなってくる。
 だからつい、昨日湯船の中で吉田と泳ぎ回ったという話をしてしまった。
 「へえ、お兄ちゃんも子どもみたいなことするんですねっ」
 聡子ちゃんが面白がった。
 「聡子ちゃんだって、昨日綾子さんと一緒に泳いでたじゃない」
 「あ……。それは、内緒にしといてほしかったです……」
 望月の暴露に聡子ちゃんは赤面し、頬を掻いた。
 「へえ、聡子ちゃんも泳いだんだ」
 俺は、広い湯船の中で平泳ぎをしている聡子ちゃんを思い浮かべた。
 「あ。薫くん、今聡子ちゃんの裸想像したでしょ」
 望月が俺の顔を覗き込むようにして言った。
 「なっ、なななな何を言うのかな望月さんは。やだなあ、そんなことするわけないじゃありませんか」
 さすがに付き合いが長いと、表情を見ただけで考えていることがわかってしまうのだろうか。望月ふみ。末恐ろしい奴だ……。
 それからも長々とおしゃべりは続き、気が付くと七時を過ぎていた。
 途中、暇だったのか、フロントの青年紳士がアイスコーヒーを運んできてくれた。頼んでいないのだ。青年紳士の奢りだった。俺たちの会話がほとんど彼の耳にも届いていたらしい。にこやかな笑みの中にも俺たちに対する親しみを感じさせるものが窺えた。それがプロというものなのかもしれない。
 七時三十分になった。
 綾子と穴山さんが降りてきた。綾子は、ピンクのノースリーブの上に白の透かし柄の七分袖カーデガンを着ている。下はジーンズ。靴はスニーカーだった。穴山さんは、紺色のだぼだぼの長袖シャツに、白いハーフパンツ姿だった。
 うーん、俺のイメージとは逆だな。綾子の方が動きやすいハーフパンツなんか着てそうなんだが。と思っていたら、
 「カオちゃん似合う? これ愛美の服やねん」
 「綾子がどうしてもって言うから交換したんだけど……」
 上機嫌な綾子とは裏腹に、穴山さんは戸惑っているようだ。何にだろうか?
 「愛美はほんまは足出したくないんやって。ウチが無理矢理交換してもろてん」
 俺の耳元で綾子が説明した。
 なるほど。確かに、穴山さんは肌を露出しないイメージがある。それに、色白の肌が太陽に弱そうだし……。
 熱血少女という風には綾子から聞いている。実際、体育祭では最後のリレー選手に選ばれたほどの実力者だ。その上泳ぎもうまい。
 なのに、おしとやかなイメージがある。俺の偏見か?
 いやあしかし、穴山さんが何となく照れたような表情をしているのを見て、何か得した気分になった。もちろん、それは慣れない服装のせいということはわかっているが。
 「穴山さん、その服似合ってるよ」
 「えっ?」
 穴山さんが驚いた顔で俺を見る。ん? 何か驚くようなこと言ったか?
 「ちょっとカオちゃん、ウチはどうなん? 似合うてるか訊いたやん」
 綾子が横で口を尖らせた。
 「え? あ、そうね、綾子も似合ってる」
 「何か投げやりっぽいなあ」
 「綾子ちゃん、薫くんてね、ファッションには疎いんだよ。だから、訊いてもわからないと思う」
 横から望月が口を挟んだ。
 「はっはーん。カオちゃんセンスないん〜? ダッサ〜」
 ぐさっ。
 「お前ね、その言い方ほんとに胸に突き刺さるから止めてくれ」
 俺は心臓の辺りを手で押さえながら言った。
 「ハロ〜エブリボデー。こんちお日柄もよく」
 手を叩いて現れたのは吉田だった。今日もアロハを着ている。アロハに銀のアクセをヂャラヂャラと。何て奴だ。こいつこそセンスの欠片もないと言えるはずだ。
 「お前な、アメリカ風なのか日本風なのかどっちかにしろよな」
 「お待たせしました。朝飯食いに行きやしょう」
 俺を無視し、吉田が言った。
 「うおおおっ、由利さんは今日も眩しいぜえっ」
 まるで鏡に反射する光を遮るように、吉田が手をかざして言った。しかし、そういうことに無頓着な綾子は、
 「え? ウチ光りモンなんか持ち歩いてへんで」
 これだ。綾子は、自分が男にもてているということに気が付いていないのだ。吉田のアピールもあっさり退けられる。ある意味いい気味だ。
 聡子ちゃんのお母さんも現れ、俺たちはぞろぞろとホテル内にあるレストランに向かった。
 朝食はバイキング形式だった。洋食、和食、どちらでも、いくらでも取っていいらしい。パンだけでも十数種類もある。その代わり、このレストランで食べるのならひとり千円もかかる。しかし、元は取るので気にしない。
 「ねえ、今日は何して過ごすの?」
 トーストを咀嚼し、きちんと飲み込んでから望月が言った。
 「うーん……」
 俺は首を捻ったが、それよりもご飯を食べるのに一生懸命になっていた。
 今日は、和食。いつもは、朝時間がないせいもあってトーストで終わらせる。しかし、俺は基本的に和食派である。ご飯に味噌汁、卵焼きという朝ご飯が大好きなのだ。
 今日は、それに白菜の漬物と小松菜、ほうれん草のお浸しなんぞを足す。ついでに、金平牛蒡も取ってきた。後は、食後にコーヒーとデザートを何か取ってくれば、元は取れるはずだった。
 和食は、もうひとりだけいた。綾子だ。やはり俺と血が繋がっているせいか、綾子も白い米が好きらしい。
 「そう言えば、今晩縁日があるらしいよ。行って見る?」
 と、これは聡子ちゃんのお母さんだ。
 「おおっ、縁日? いいねえ、行きましょう!」
 吉田が一も二もなく飛びついた。
 「いいですねえ。ウチも行きます」
 関西弁の微妙なアクセントで綾子も乗った。
 みんな、頷いている。決まった。
 「でも、問題はそれまでどうするか、よね? 縁日は夜からなんですよね」
 穴山さんが言った。確かに、その通りだった。
 正直、海はもういい。いや、別に昨日穴山さんに競泳で負けたから言ってるわけじゃない。ほんとだぞ。
 今日は山に行ってみたい。せっかく海も山もあるのだから、贅沢に両方責めて見るというのもいいと思うのだ。
 「あのう、私は山に登ってみたいんですけどぉ」
 聡子ちゃんがおずおずと言った。
 「おお、俺も言おうと思ってた。山に登らねえか?」
 すぐに俺が賛成したので、聡子ちゃんはなぜかほっとしたらしい。聡子ちゃんはこの中で一番年下だから、反感を持たれたるのが怖いのかもしれない。
 「私も山がいい」
 「ふみちゃんは絶対カオちゃんに合わせるねえ。アツイアツイ」
 古い冷やかしの仕方だな。
 「そ、そんなんじゃないもん」
 「そんなんて、どんなん?」
 綾子が冷やかす。
 「あたしは海で泳ぐよ。足出して山には登りたくないし……」
 「ああ。虫がいそうだしな、蛇とか出そう」
 「えええええっ」
 蛇と聞いて聡子ちゃんが泣きそうな声を出した。
 「愛美がいかへんのやったらウチも海で泳ぐわ」
 「由利さんが行かねえんなら俺も行かね」
 「何であんたも?」
 綾子が吉田を睨む。
 「いいじゃねえですか。今日は一緒に泳ぎましょう」
 「まあええけど」
 それは消極的な同意だった……。
 しかし、今日は海と山で別れることになりそうだ。吉田がどっかいくのは別に構わないが、綾子も穴山さんも来ないというのは、確かに寂しいかもしれない。
 ま、幼馴染みの三人で山登りするというのもいいか。昔はよく家族ぐるみでハイキングに行ったもんだ。
 「おばさんは、どうしますか?」
 俺は聡子ちゃんのお母さんに訊いた。
 「私は聡子ちゃんに着いて行きます。山は危険ですからね」
 「縁日は何時からなんでしょうかね」
 吉田が言った。聡子ちゃんのお母さんは、
 「さあ。十八時くらいに始まるんじゃないかしら」
 「じゃあ、十七時にロビーで集合ということにして、みんなで縁日行こうか」
 吉田が決めた。異存は出なかったが、
 「昼飯どうすんのよ」
 俺が訊くと、
 「そりゃ、グループごとに適当に、でいいんじゃねえの?」
 吉田が考えるまでもないと言いたげな口調で言った。
 確かに、それもいい。綾子や穴山さんとは会えないが、吉田がいないというのは大きい。いや、比べられないもんなんだが……。うーん。難しいところだが、今回は諦めよう。
 「解散っ」
 皆が一斉に立ち上がった。
 俺を除いて。
 「薫くんどうしたの?」
 望月がきょとんとした顔で訊いた。
 「いや、ちょっと、食い過ぎて苦しい……」
 皆が呆れたように、溜め息をついた……。


    to be continued
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