第四章:冬
    一

 突然だが、綾子が、大阪の実家へ帰ることに決まったと、俺に告げた。
 本当に突然だった。
 本日、クリスマス・イブに、皆を家に呼んで、最後のパーティーを開く。
 そして、明日。クリスマスに、実家に帰るというのである。
 唐突である。青天の霹靂とは、まさにこのことを言う。
 「そう言えばお前、どうして家に居候にきたんだ? 別に、家の事情ってのも、特になかったように見えるんだが」
 そうだ。たまに、綾子は大阪の実家に電話連絡をしていた。
 そもそも、どうして東京に出てきたのだろうか?
 「何それ。なんで今ごろそんなこと訊くん?」
 綾子が目を丸くして言った。
 確かに……。前々から、ずっと気にはなっていたのだが、訊く機会がなかったのである。
 「機会はいくらでもあったやろ。一緒に暮らしてるんやから」
 それもそうだ。
 「んじゃ質問を変えよう。どうして急に実家に帰ることになったんだ?」
 「別に質問変えんでもええねんけど」
 と、言ってから、
 「東京の学校に通ってみたかってんよ。大阪は飽きてん。で、東京来て、ある程度楽しめたし、そろそろ大阪帰ってもええかな思て」
 「………」
 「………」
 「……お前、わがままだろ」
 「……今思えばウチもそう思うわ」
 今じゃなくてもそれはわがままだろ。
 「でも、ずいぶんと中途半端な時期じゃねえか? なんできちんと一年間通わないんだ?」
 「止めてくれるん?」
 綾子が目を丸くした。
 「ん? まあ、三月からこっち、今年度っていうのか、それは、いつになく楽しかったからな。お前がいたからだと思う」
 「……ずいぶん素直やな」
 「俺はいつだって正直だ」
 「はあぁぁぁぁ……」
 なんともやりきれない、とでも言うような長い長い溜め息。
 「ま、ええんちゃう?」
 「何が?」
 しばらく時が止まったかのように見詰め合うふたり。
 「はあ。なんでウチ東京出てきたんやろ……」
 「大阪に飽きたからだろ」
 自分で言ったじゃねえか。
 「さっ。買い出しに行ってくるわ」
 気を取り直したように、綾子が元気に歩き出した。
 「いってらっしゃい」
 俺がその背中に言うと、
 「何言うてんの。カオちゃんこな、誰が荷物持ちするん」
 「………」
 「………」
 「……俺は、昼間外に出ると灰になってしまうんだ」
 「そうそう。吸血鬼は太陽とニンニク、十字架に弱いねんな」
 「………」
 「………」
 「………」
 ボケを素で返された。
 「アホなこと言うてへんと、早よ行くで」
 「はい」
 今回のところは素直に負けを認めてやろう。
 俺は寛大な心を見せ、綾子の後ろを、まるで従者のように着いて行くのだったって、俺は従者じゃねえぞ。ほんとだぞ。ほんとに俺は従者じゃねえぞ。

 「で。今日は誰が家に来るんだ?」
 買い物が終わり、綾子の体重ほどはありそうな荷物(実際何キロかは知らないが……)を持って家に死にそうになりながら帰ってきた俺は、横で袋の中身を冷蔵庫に移している綾子の方を見て訊いた。
 「ええとな。愛美と聡子ちゃんとふみちゃん」
 ちなみに、綾子は財布しか持っていなかった。
 買い物袋は、すべて俺の担当。なんてこった。これじゃまるで本物の従者のようじゃねえか。
 「三人だけ?」
 「うん。なんで?」
 冷蔵庫への収納をせっせとやりながら綾子が訊いた。
 「今日が最後なんだろ? 伊勢さんとか、親衛隊の奴らとかは呼ばねえのか?」
 喉がカラカラなので冷蔵庫に近付いた俺を、綾子は邪魔! とでも言わんばかりに蹴飛ばすようにしながら、
 「今日は最後やから、ほんまに仲のええ仲間内だけで騒ぎたいねん」
 「へえ……。吉田は仲間外れだな? いい気味だ」
 ふっふっふ、と俺は忍び笑いを洩らす。
 「今日は愛美がウチの部屋に泊まることになってるから、風呂場とか覗いたらあかんで」
 「誰が覗くかいっ」
 「でもカオちゃんのことやから、わざと『間違えた』とか言って風呂に入りそうやもんな」
 「血の繋がりのあるお前にもしたことねえのに、穴山さんにそんなことするわけねえだろ」
 「じゃあふみちゃんか聡子ちゃんならやるってことやな」
 「なんでそう思うのよ……」
 こいつの相手も、なかなか疲れるのだ。
 「でも、なんで穴山さん泊まるんだろう? 家遠いのかな」
 「最後やから、時間を気にせず騒ぎたい言ってたで」
 「へえ……」
 あの穴山さんが、時間を気にせずはしゃぐのねえ……。
 「俺は、てっきりお前との思い出作りのためかと思った」
 「は?」
 手を止めて俺の方を見る。
 「いや、もう会えないってことだし、最後の夜をふたりで過ごす……」
 「……ウチらレズちゃうで」
 冷静に突っ込まれる。
 「あ、そう……」
 少し、見当外れのことを言ってしまったようだ。しかし、そういう雰囲気もなきにしもあらずだったんだけどなあ……。
 いつもふたりで行動してたし。
 しかし、純粋に男が好きなんだったら、綾子は彼氏を見つけたのかな。周りで騒ぐ奴は大勢いたが、綾子が乗り気だったことは、たぶんないはずだ。
 ということは、単に好みの男がいなかったのか、大阪に彼氏が待っているのか……。
 ん? 確か片思いというようなことを言っていたような気がする。
 ま、どうでもいいや。俺には関係ない。
 「で、今晩は何を作るんだ?」
 「ふっふーん」
 と、綾子は胸を張って笑い、
 「それはできてからのお楽しみ」

 そして、時刻は十八時。
 すっかり、暗くなっている。冬の夜空は、凍えるように鮮やかな黒が、空を覆っているように見える。
 しかし、それは都心には見られない空である。俺ん家のように、郊外にある住宅地でないと、この空は見えないだろう。実際、星もいくつか見えている。
 どうやら、ホワイトクリスマスは期待できそうにない。
 ま、みんなでバカ騒ぎという、およそイブらしからぬ気分なので雪は必要ないのだが……。
 「こんばんはー」
 聡子ちゃんがやってきた。
 寒そうに、全身フル装備。コートにマフラー、手袋を嵌めている。
 頬や唇を冷気で真っ赤にさせて、聡子ちゃんが俺に挨拶をする。
 ほんと、高校生とは思えないほどのかわいらしさである。
 聡子ちゃんは、両手で抱き抱えるように、大きめの袋を持っている。
 「寒かっただろ。入ってくれ」
 「お邪魔しまーすっ」
 元気良く靴を脱ぐと、駆けるようにしてリビングに向かった。
 すぐに、またチャイムが鳴り、出ると穴山さんが外に立っていた。
 「メリークリスマス」
 穴山さんは、微笑を称えている。今日は、なぜか三つ網だった。
 首筋が寒そうに見えるのは俺だけだろうか。いつもの、胸まで伸びた(と言っても背中だが)後ろ髪が、今日は綺麗に束ねられている。
 その長い三つ網を、マフラー代わりに首に巻いている。
 なかなかユニークな姿だ。新しいファッションなのかもしれない(?)。
 「聡子ちゃんはもう来てるよ。さ、どうぞ」
 俺が案内すると、
 「お邪魔します」
 と、穴山さんは両手を揃えて言ってから靴を脱いだ。
 肩から、ボストンバッグのような鞄を提げている。着替えが、入っているのだろう。
 「すまん、綾子は料理作ってるから、荷物は綾子の部屋に置いてきてくれるか? 場所わかるよな?」
 「あ、うん。わかった」
 穴山さんは、駆けるようにして階段を上がっていった。
 さて。あとは、望月が来れば、全員揃う。
 しかし、俺は、ちょっとだけ不安に思っていることがあった。
 修学旅行で、気まずい別れをして以来、ほとんど顔を合わすことがなかったのである。今晩、久しぶりに会うことになる。
 果たして、俺は普段通りに声を掛けることができるだろうか? いつものように、望月の顔をまともに見ることができるだろうか?
 「あ、カオちゃん」
 キッチンから綾子が顔を出した。
 「ふみちゃん家に迎えに行ったげ」
 「は?」
 なんで?
 「ふみちゃんにはな、カオちゃんを迎えに寄越すって電話連絡をしといたから」
 「なんでそんな嫌がらせに近いことを……」
 こ、心の準備ができていない。
 「なんで嫌がらせなん?」
 綾子が口を尖らせる。
 「大事な彼女やろ。知ってんねんで、ふみちゃんと名前入りのキーホルダーを交換したこと」
 「なっっ、なんでお前がそれを……」
 俺はたじろぎ、背中から壁に貼りつく。
 「気付いてへんと思った? ふみちゃんな、『かおるくん』て書かれたキーホルダー、鞄のファスナーんとこに付けてんねん」
 なんで、そんな、あからさまなことを……。
 「でも、俺ら、別に付き合ってるわけじゃ……」
 これは本当である。それどころか、あれ以来気まずくて顔を合わすことすらしていないのだ。
 「あんなあ、もうバレてんねんで。いい加減認めなふみちゃん可哀想やわ」
 「それに望月ん家は隣り……」
 聞く耳持たん、とでも言うように、綾子はキッチンに消えて行った。
 ……しかし、ほんとに付き合ってるわけじゃないんだぞ……。
 「ふう」
 ま、こうしていても仕方がない。
 俺は靴を履いて外へ出た。
 嫌だなあ……。

 「よう」
 チャイムを鳴らし、出てきた望月に俺が片手を挙げて言った。
 「あ、薫くん」
 ぱっと、望月の表情が明るくなった。俺を待っていた、ということなのだろう。既に準備はできているようだった。
 ふたりは、並んで歩き出した。
 と言っても、行き先は十メートルも離れていない、俺の家である。欠伸をする間に着いてしまう。
 「お前な、ひとつだけ言っとくぞ」
 必要以上にゆっくり歩きながら、俺が口を開いた。
 「え?」
 望月が俺に顔を向ける。まっすぐと、俺の目を見上げている。
 「俺とお前は、付き合ってるのか?」
 「えっ?」
 望月の顔が、燃えるように赤く染まり、落ちてくる何かを目で追うようにして、俯いた。
 「あんまり、余計なこと、言うなよ」
 「え?」
 望月が、俯いたまま首を傾げる。
 それにしても、お前訊き返し過ぎ。
 「俺のことが好きだっていうのはわかったけどよ、なんで俺と付き合ってるって言いふらすわけ?」
 「え?」
 と、再び訊き返し、
 「私、何も言ってないけど……」
 「あ? 『かおるくん』キーホルダーを鞄につけて歩いてるんだろ?」
 「うん」
 と、神妙な顔で頷く。顔は赤い。夜気のせいだけではない。
 「じゃ、言いふらしてるようなもんじゃないか」
 「でも、まだ付き合ってないよ」
 今、「まだ」って言いました?
 「でもなあ、他の連中がそうは思わないみたいなんだよ」
 「へえ……私と薫くんが付き合ってるって、思ってる人がいるの?」
 上目遣いに、おずおずといった仕草で訊いてくる。
 「文化祭んときに、一緒に逃げたし、手を繋いで歩いてるとこ見られたし、もちろん繋ぎたくて繋いだわけじゃなくて、逃げる時に引っ張ったから、それ自体忘れてしまってたってのが真相だが……とにかく、そのキーホルダーをつけてるってのが、決め手みたいなんだわ」
 「でも、キーホルダーをつけてるだけで、何で私が怒られなきゃいけないの?」
 「あ?」
 視線を望月に戻す。
 「だって、キーホルダーは飾るものじゃなくて、鞄につけるものでしょ? なんで、ちゃんとした使い方をしてて、怒られるの? これがピアスの代わりに耳にぶら下げてたってのなら、怒られるかもしれないけど……」
 「いや、そんなやつはいねえ」
 しかし、今のは冗談か?
 望月もたまにジョークを言うからな……それも、ジョークか本気かよくわからない冗談を。
 いつもその判断に困るんだよな。
 「それに。あのキーホルダーは貰ったんだもん。つけるなっていうのなら、どうして私にくれたの?」
 怒ったような口調である。これを、逆ギレというのだろうか?
 しかし、貰った?
 どっちかっていうと……ひったくったんだろ? 望月が。
 「いや、しかしだな、いらぬ誤解を受けるわけだから……」
 「別にいいじゃない。私がつけたいからつけてるんだもん。薫くんは、つけたくないから私のキーホルダーつけてないんでしょ? 周りのことなんか、どうでもいいよ」
 「いや、一応持ち歩くことは持ち歩いてる……」
 「えっ?」
 虚を突かれたように、望月は目を丸くする。
 そして往復ビンタを食らわせたように頬を真っ赤に染め、
 「も、持っててくれてるんだ……」
 と、俯いた。
 しかし、往復ビンタ……。俺の例えはどうしていつも悪いんだ?
 「ま、いいから入ろうぜ。寒いだろ」
 俺は、自分の家の玄関のドアを開けた。

 「遅過ぎ」
 と、リビングに入った俺たちを、綾子が睨んだ。
 「すぐそこやん。くしゃみする間につく距離を、何をちんたら歩いとったん? まさかイチャついとったわけやないやんな」
 と、語尾にいささか好色めいた笑みを浮かべて言う。
 なんか最近異様なほど綾子が絡んでくるような気がする……。
 「こんばんはお姉ちゃん」
 と、聡子ちゃんと望月は相変わらず笑顔で挨拶を交わしている。
 「ま、ええからテーブルの用意手伝って」
 急に態度を変えると、綾子は俺に命令した。そして、きびきびと動き回る。
 俺は溜め息をついてから、のろのろと動き出した。
 テーブルに皿に盛りつけられた様々なディナーを並べ、真ん中にメインディッシュとも言うべき鳥の丸焼き(?)を置く。
 シャンパングラスを用意し、アルコールのないシャンパンを置く。炭酸である。
 「おおおおおっ」
 「美味しそう……」
 「さすが綾子ね……あたしには真似できない」
 と、綾子は穴山さんが脱帽するほどの料理の腕前を持ち合わせている。
 他のふたりも、目を丸くしてただただ驚いている様子だ。
 テーブルにつき、俺がシャンパンのコルクを抜くのを皆が注目する。
 ポンッ、という軽い音がすると同時に、シュワワワワと、炭酸が弾けた。
 「じゃ、まずは今日の看板、綾子から」
 と言って、俺が綾子のグラスにシャンパンを注いだ。
 なぜか、俺がシャンパン係りになってしまった。俺のグラスには、俺の向かいに座っている望月が注いでくれた。
 「じゃ、カンパーイッ」
 チン、キン、と、合わせたグラスは微妙な音の違いを聞かせてくれた。
 アルコールではないので、いくらでも飲める。前後不覚になることも有り得ない。
 鳥にナイフを伸ばそうとする聡子ちゃんを俺は手で制し、
 「メインディッシュにナイフを入れるのは、まずは綾子だよ」
 へ? という表情を俺に向ける聡子ちゃん。
 「あ。そうなん? じゃ、遠慮なくウチから……」
 と言って、ナイフとフォークを精一杯伸ばし、肉を切る綾子。
 それをなぜか全員で見届け、それから各々が手を伸ばし始める。
 しかし、今思えば不思議な光景である。
 五年ぶりくらいに再会した綾子。今年になって初めて言葉を交わした穴山さん。
 聡子ちゃんと望月は、いつものように顔を合わせているから、不思議でも何でもないが、この四人がひとつの場所に勢揃うということが不思議であった。
 聡子ちゃんにしろ、望月にしろ、クリスマスに、厳密に言えばイヴだが、一緒に過ごしたことはないのである。
 それが、綾子という従姉弟が東京に出てきてから、急激に一緒に過ごす機会が増えた。
 奇縁とも、呼べるかもしれない。
 いくつか一緒に季節を過ごしたけれど、綾子がいなければ、俺は穴山さんと今年も一言も言葉を交わさずに終わったかもしれなかったのだ。
 すると、遠足や体育祭、文化祭や修学旅行だって、全然違う内容になったはずなのである。
 熱海への旅行も、もしかするとなかったかもしれない。
 人の縁とは、実に奇妙なものだと、つくづく思う。
 運命は気まぐれだとか、皮肉だという言葉で表現されるが、まさにその通りなのだ。
 穴山さんだって、綾子がいなければ、男子と多く話す機会はなかったろうに思う。俺とも、話す機会はなかっただろう。
 いや、聡子ちゃんがいるから、俺の場合は少し違うかもしれない。ふたりは吹奏楽部の先輩後輩という間柄なのだった。
 聡子ちゃんにも、望月にも、少なからず影響があったはずである。
 入学式の祝賀会では、綾子は聡子ちゃんにも望月にもビールを飲ませた。
 熱海への旅行では、ふたりともはしゃいでいた。海で遊び、一緒に熱海峠を歩いた。
 綾子がいなければ、この一年はずっと平凡なものだったのかもしれない。
 すごく、楽しかった。
 綾子のお陰だ。
 しかし、その綾子は、明日にも大阪へ帰ってしまうのである。
 感謝の気持ちを持って、送ってやろう。
 「カオちゃん、何ぼけっとしてんの? ウチの料理に何か文句あるんちゃうやんな?」
 綾子が、俺の顔を覗き込むようにして言った。顔は笑っているが、声は笑っていなかった……。
 食事が終わり、夜遅くまで遊んだ。
 聡子ちゃんを家に送り届けたのは、もう日付が変わる時刻だった。
 望月とふたりで送り、帰りながら望月を送る。
 「メリークリスマス」
 別れ際、望月が俺に言った。
 本当は、プレゼント交換を予定していた。
 適当にくじを引いて、ペアになったふたりがそれぞれ用意したクリスマスプレゼントを交換するのである。
 しかし、それを取り止め、それぞれが用意したプレゼントを、綾子に渡したのであった。
 一年間ありがとう。そして、これからもお元気で。
 それぞれの思いを込めて……。
 綾子は渋い顔をして、皆からのプレゼントを受け取った。
 本当は、帰りたくないのではないだろうか。俺は思った。
 なぜなら、皆が帰った後、穴山さんが風呂に入っている間に、綾子は大声を上げて泣いていたからに他ならない。
 それでも、あいつは明日にはさばさばとして、あっさりと別れることになるだろう。
 あいつに、泣き顔は似合わない。


    to be continued
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