三
どう考えても、俺のせいだった。
俺が、くだらない妄想をしていたから、事故りそうになったのだし、そのせいで望月にいらない傷を負わせてしまったのだ。
病院まで、俺も付き添った。
ちょうど、聡子ちゃんが通り掛かったから、よかった。聡子ちゃんも一緒に付いて来た。
麓の病院で、望月は検査を受けた。
たいした怪我ではなかった。服が分厚いから、それで傷が浅かったのだと、医者に教えてもらった。
傷口には包帯を巻き、今日一日病院に泊まって、明日、もう一度検査をする。早ければ、明日退院できるとのことだった。しかし、普通医者は患者やその家族に不安がらせることは言わない。
おそらく、たいした傷じゃない、ということを強調しているだけで、明日の退院は無理だろうと、俺は思っている。
聡子ちゃんに、望月の家に連絡をしてもらって、望月の母親が病院に姿を現したのは午後七時を回っていた。
「すいませんでした。俺の不注意で、俺を助けるために望月は……」
俺は、望月の母親に頭を下げて詫びた。
しかし、母親の方は、無事だったんだから、と言って笑っていた。娘の症状が、軽かったからだろう。
母親は、望月のパジャマを持ってきてくれた。それを着せ、帰って行った。聡子ちゃんも、一緒に連れて帰ってもらった。
「あとはよろしくね、薫くん」
望月の母親は、からかうような口調で言ったものだった。
その日、俺は無理を言って病院に泊めてもらった。
俺のせいなのだ。一晩中でも、望月の看病をするつもりでいた。
「大丈夫だよ。ちょっと痛みあるけど、歩けないことないもん」
俺が泊まると言った時、望月は満更でもない顔で言った。
「でも、俺のせいなんだ。今晩だけでも、一緒にいさせてくれ」
それが、せめてもの償いだと、俺は思ったのだった。
背凭れのないパイプ椅子に座ったまま、用意してもらった毛布にくるみ、俺はベッドで寝ている望月の左手を握っていた。
こいつは、小さい頃から、枕が変わると眠れないと言っていたからな。眠れるまで、俺が話し相手になってやらないと。
「消灯時間過ぎてるから、静かにね」
大部屋では、話すこともできないのだった。
俺の手を握り締めて、望月は静かに寝息を立て始めた。
真っ暗な病室。時計の針の音すらもない静寂。
月明かりが窓から指し込み、寝ている望月をわずかに闇の中に浮かび上がらせていた。
望月の上にかけたふとんが、ゆっくり上下している。やすらかな、寝息である。
その規則性は、見ている俺にも眠気を催した。
俺は、望月の左手を握ったまま、その手元に縋るような姿勢で頭を突っ伏せ、目を閉じた。
学校の机で寝るのと比べたら(!)、遥かに寝やすかった。
「ん……」
翌朝。小鳥の鳴き声に顔を上げると、
「おはよう……」
顔を真っ赤にさせている望月と目が合った。
「ああ……おはよう」
俺の手は、まだ望月の左手を握っていた。
さすがだぜ俺。寝相がいい。ま、こういう寝方をして寝相が悪いってのもおかしいいかもしれないが。
ようやく手を離し、俺は目をごしごしと擦った。
「起きてたんだな。今何時?」
「うん……一回目が覚めたんだけどね……薫くんの寝顔見てたら眠気が吹っ飛んじゃった。七時半だよ」
時計を見て望月が言った。
「なんで俺の顔を見たら眠気が飛んだんだ?」
伸びをしながら訊いた。
「え。その……手が、あったかくて」
は?
「なんで手があったかいと眠気が飛ぶんだ?」
「あの。ごめん、薫くん、実は、私、トイレに、行きたくて、その……」
望月がもじもじしながら言った。そうか。俺が手を握ってるから、無理に離そうとすると起こしてしまうってんで、我慢していたんだな。
「じゃ、そこまでついてってやるよ。歩けないだろ」
しかし、なんでそれで眠気が飛ぶんだ?
「え。いいよ、そんな……恥ずかしいよ」
「ダメだ。ひとりじゃ心配で行かせられない」
「え……」
また顔を赤く染めて下を向いてしまう望月。
とにかく、俺が肩を貸してやって、トイレまで行くことができた。しかし、中まではさすがに付いて行けないので、外で待つ。
ベッドに戻ったと同時に、看護師(女性)が顔を出した。
「望月さん、検温です」
言って、体温計を取り出した。
帰り際、
「いいですねえ、素敵な恋人が泊まり込んでくれて」
と、俺のほうをちらっと見てからからかうような口調で言った。
「は……」
「………」
ふたり揃って、おそらく耳まで真っ赤になっただろう。
それを見ながら、看護師の女性はふふふと笑いながら病室を出て行った。
しまった。
昨夜泊まり込むと言ったから、俺と望月のことが病院内の看護婦師や医者全員に知れ渡ってしまったのかもしれない。
自分を助けるために怪我をした彼女。彼女を看病するために病院に泊まり込む彼氏。
昼の連ドラのような展開……。ああ、でも、昼の連ドラなら、もっと愛憎が複雑に絡み合うか。
しかし、俺は当然のことをしたまでのことなのだ。
望月のために俺がしてやれることと言えば、これくらいしかないじゃないか。
初めての病院で、大部屋に詰め込まれた不安は、少なからずあるはずだ。ストレスもあるだろう。いくらカーテンで仕切りができると言っても、壁ではないのだ。布一枚だけの仕切りで、壁とはお世辞にも言えないのである。
せめて、俺が一緒にいてやれば、不安もいくらかは和らぐだろう。
そう思ってのことなのだ。怪我の治療は、俺にはできないのだから。
しかし、そのように見られるのも、悪くはない、と思うようになっていた。
この心境の変化は、どうしたことか。でも、悪くないのだ。
望月のことが好きなのかどうか、それはわからない。でも、嫌いというわけでは、決してない。
「朝御飯ですよ〜」
と、廊下の方で声が聞こえた。
「朝御飯は、検温の後にやってくるのか」
「そうみたいだね」
「じゃ、取ってきてやるよ」
笑顔で言うと、俺は駆け出すようにして廊下に出て行った。
「はい。望月ふみさんね。これだよ」
給食係のおばちゃんのような服装をしたおばちゃんが、ワゴンから望月用の朝食を取り出してくれた。
「俺の分は、ありませんよね……?」
念のため訊いて見る。
「え? あんた誰だい?」
「真田薫」
しばらくワゴンの中を見たおばちゃんだが、やがて顔を上げると、
「ないねえ。下の売店で、パンでも買って来たら?」
と、首を横に振った。
売店があるのか。
俺は受け取った望月の朝食のトレイを、望月が寝転んでいるベッドへ運んだ。
ベッドにかけるテーブルを掛け、ベッドの足の方にあるゼンマイを巻き、ベッドの上半身を起き上がらせる。
「へえ。ずいぶん便利なんだね」
凭れたまま食事が摂れる、ということに、望月は感心しているようだった。
「下に売店があるらしいから、パンでも買ってくる」
手を振り、病室から飛び出して行く。
昨日は、焦っていたのか何なのか、病院内のことをまったく気にしていなかったが、こうして見てみると、意外に広い。総合病院のようだった。
一階に行き、正面玄関の横にある売店に駆け込んだ。
おにぎり、カレーパン、サンドイッチとあった。コンビニで売っているようなハンバーガーも、置いてあった。
俺はサンドイッチとおにぎりをふたつ、お茶をひとつ買って望月が待つ病室に戻った。
「ただいま」
「あ。おかえりなさい」
望月は、まだ食事に箸をつけていなかった。俺を待っていてくれたのだ。
急いでよかった。言わなくても、望月はこれだけの優しさを持ち合わせている。
「悪いな、冷めたんじゃねえか?」
背凭れのないパイプ椅子に腰掛けながら言うと、
「元々そんなにあったかくないよ」
言いながら姿勢を正し、
「いただきます」
と、両手を合わせて軽く頭を下げる。
お前は寺の修行尼僧か。と言いたくなるほどの、行儀の良さだった。
望月の今朝の献立は、白い御飯。鮭の塩焼き。ほうれん草のお浸し。味噌汁と味付け海苔だった。
デザートに、プリンがあった。
小さな口に、ゆっくりと御飯を運び、じっくり味わうように噛む。
味噌汁のお椀を両手で包むように持ち、音を立てずに飲む。
「ん、何?」
俺の視線に気付いたのか、望月は恥ずかしそうに笑みを浮かべて訊いた。
「いや。妙に行儀がいいなって思って」
「私は小さい頃からこうやって食べてるよ。行儀がいいとか悪いとか、考えたこともないけど……」
そう言えば、こいつは幼稚園の弁当の時も、床に正座をして、背筋を伸ばして弁当を食べていた。
俺が買ってきたお茶を飲んでいるのを見ると、
「あ。私にもちょうだい」
と言って、俺の方へ手を伸ばしてきた。
「あん? 買ってきてやろうか?」
腰を浮かし掛けた俺に、
「ううん。そんなにはいらないから。それ、ちょっとちょうだい」
ま、いいけど……。
手渡してやると、嬉しそうに飲んだ。
……ラッパ飲み。
「っておまえ、それって間接キスじゃ……」
はっ。
言ってしまってから気が付いた。
望月が固まってしまった。当然、顔を真っ赤にさせて。ユデダコのようだ、という表現がぴったり当て嵌まる。
俺も、恐らく赤くなってるのだろう。湯気がでてしまうほど、顔が熱い。
これを、恐らく自爆というのだろう。
自分から気まずい雰囲気を作り出しているのだから。
無言のまま、俺たちは食事を再開した。
食事が終わり、俺は望月のトレイを返しに行った。
「ごめんね薫くん、従者のように扱って」
冗談のように望月が言った。もう、気にしていない様子だった。
「いいさ。好きでやってんだから」
俺の答えが予想外だったのか、望月は目を丸くしていた。
診察の時間がきた。俺は、望月を車椅子に乗せ、診察室まで押してやった。
出て行っていいよ、と医者(ここの外科は女医だった)に目で言われたが、俺は加害者のようなものなので聞く権利があると思って、そのまま診察室に居座った。
「あの、薫くん……」
望月が恥ずかしそうに切り出した。
「あ?」
「包帯を取り換えるみたいだから、その、足を出すから、その、出て行くか、その、向こう向いてて」
途切れ途切れに、俯いて望月は言った。
「あ、そう……」
俺は気恥ずかしくなって、後ろを向いた。
しゅるしゅると、衣擦れのような音が聞こえる。
「痛みはある?」
女医さんの声。
「いえ……体を動かす時は、力が入ってズキズキしますけど、何もしてなかったら痛くありません」
「そう……沁みるかもしれないけど、我慢してね」
女医さんはそう言うと、何か行動を起こした。
後ろ向きじゃわかんねえよ。
「うっ……」
望月が押し殺したような声を出した。
消毒してるのかな……?
「血も止まってるし、血管が傷ついてるわけでもないから、あと二、三日安静にしてたらすぐに治るわね。歩く時は、ゆっくりね」
「は、はい……」
「はい、おしまい」
やっと、振り向くことができる。
「あの、今日退院じゃないんですか? あと二、三日って……」
俺が訊くと、
「あ、退院してもらっていいよ。その代わり、ゆっくり歩かなきゃいけないから、彼氏のあなたが一緒に歩いてあげないとダメよ」
「は?」
「歩くときは杖代わりに腕を掴ませてあげてね」
おいおい女医さん、いいのかよ、怪我人に対してそんな冗談言って……。
「杖は借りられないんですか?」
俺が訊くと、
「一日百万円」
「何言ってんスか」
「いいじゃない。腕の一本くらい貸してあげたら。あなたが生きてるのって、彼女が身を呈して護ってくれたからなんでしょ?」
既にここまで話が回っている。人の噂は風よりも早い。
ま、いいけどね……。
「じゃ、お大事に」
笑顔で送られる俺と望月。
「ありがとうございましたー」
車椅子を押しながら、俺と望月は挨拶して、診察室を出て行った。
「ねえ、どうしようか? 松葉杖借りる?」
望月が顔を上に上げて訊いた。
「いいよ。女医さんの言う通り俺が杖代わりになってやる」
俺は言ってから、
「百万も持ってねえからな」
照れ隠しにそんなことを付け足した。
一月三日。
俺と望月は近所の神社に初詣に行った。三日ともなれば、参拝客は少ないだろう、という俺の睨みによる判断だった。
望月の足は、だいぶよくなっている。それどころか、普通に歩けるようには回復している。走ると、ちょっと痛むらしい。
正月三日と言えば、人込みがものすごいし、ひとりで行かせるのも不安だったので、俺が最後まで面倒みようと、連れてきたのである。
「私、今年は諦めてたんだけど」
望月は、初詣を、怪我のために行くのを断念していたのである。
俺の責任なんだってば。
「俺がついてってやるから、行くぞ」
それで、引っ張り出してきたのだった。
しかしよ、望月よ。
「お前、もう足治ったんだろ?」
「え? うん、走らなかったらもう大丈夫だよ」
「じゃあさ、なんで腕組んで歩いてんの?」
「……ダメかな?」
望月は上目遣いで、俺に甘えるような顔で訊いてきた。
「ダメじゃない。走れないってんなら、まだ治ってないってことだからな」
自分でもおかしいと思う。
「ありがとうっ」
望月は両手で抱えるように、俺の左腕にしがみ付いた。
歩きにくい。
でも、ま、いいか、という気持ちにさせられる。
自分でもおかしいと思われる。でも、なぜか、笑って許せる。
何か、おかしい。心が、浮いてるような感覚。
酔ってるわけじゃあない。でも、妙に、背伸びをしたような、心が浮く感覚。
そして、笑って許そう、という思いになるのである。
不思議な感覚だった。
お賽銭を投げ込み、ふたりで祈る。
俺は、何を願うべきなんだろうか?
とりあえず、
『望月の怪我がたいしたことなくて、ありがとうございました』
ということを感謝し、
『今年も、みんな健康に過ごせますように』
月並みだが、そう願わずにはいられなかった。
その後、おみくじを引いた。
ふたり揃って吉。かなり上々だ。
「ね、薫くん、恋愛のところ、何て書いてあった?」
「……直接的な質問には答えない」
「意味わかんないよ……」
言ってから、望月は気を取り直したように、
「私はね、待ち人のところに『身近にいる人』って書いてあって、恋愛のところは『成就できる』って書いてあるの。誰だと思う?」
ものすごく、望月ははしゃいでいた。
望月の身近にいる男ったら……俺しかいねえじゃん。
うーん。これでいいのだろうか。半信半疑のおみくじで、こんなことを言われたら本気にしてしまうじゃないか。人情とはそういうもんなのだ。
「で、薫くんは?」
笑顔を俺に向ける。期待に満ちた顔である。
「ほれ」
観念し、紙を渡す。
「どれどれ」
と、目を落とす望月。顔は笑っているが、目は真剣だった。
「『待ち人。献身的な愛を貫く人』。『恋愛。尽くせば成る』」
「………」
「………」
「………」
「……え」
望月はその場で固まった。
そして、俺の目を見上げる。再び紙に目を落とす。
もう一度俺を見上げ、
「これって、私……?」
「なんで?」
「だって、薫くんの身代わりに怪我をしたのは、献身的な愛って言えないこともないし、尽くせば成るってのは、薫くん私の怪我が治るまで従者のように尽くしてくれたもん」
従者のようには余計だ。
「おみくじというものは、捉え方の違いで、全然変わって来るってことだ。一概には言えない」
すると、望月は首を傾げた。
「つまりだな、献身的な愛とは、例えば俺に弁当を毎日作ってくれるとか、俺をいつも元気付けてくれるとか、そういう人のことかもしれないし、若しくは奴隷のように俺の命令に従う人かもしれない。俺が尽くす人ってのは、俺が弁当を毎日作ったり、元気付けたりする人がいるのかもしれないし、俺が奴隷になって働くような女王様的女性が現れるのかもしれない」
「なんかメチャクチャ言ってるよ?」
わかってるよ。
「今年は、始まってまだ三日しか経っていないんだ。何が起こるか、わかんねえだろうが」
「でも、私はこれ信じるよ」
望月が、自分のおみくじを見て言った。
「なんでだよ?」
俺が訊くと、望月は顔を上げて、こう言った。
「だって薫くん、最近私に優しいもん」
to be continued