黒の閃光
五:昏迷
コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。返事をすると、ドアが開けられ、畏まった秘書が滑り込むようにして入ってきて、静かにドアを閉めた。
「今、王都へ向けて使者が出立致しました」
秘書は畏まった様子を崩さず、仰々しく言った。
ジェトロは、フォルスを殺してしまった言い訳をするため、使者を国王の元へ走らせたのである。
その内容は、『フォルスが財宝を闇で取り引しているという事実を突き止めたので、確認に行ったところ、どうやら本当らしいので、討伐に向かい、掃討した』という白々しいものだった。
「そうか……」
ジェトロは頷き、
「ジャミルはまだ帰ってこないのか?」
「…はい」
「そっか……」
ジェトロはジャミルが死んだということを知らないのだ。
「ジャミル様のことですから、遊んでおられるのでしょう」
この秘書はさすがだった。ボスであるジェトロだけでなく、ジェトロが寵愛しているジャミルという得体の知れない輩にまで、『様』と言っている。ボスの機嫌を損なわないための配慮だった。
「ふふっ…それもそうだね」
ジャミルは強すぎる。肉体を駆使した戦闘はできないが、魔法の威力が凄まじいのだ。だから、本気を出さないでも勝てる。本気を出して一瞬で勝負がついてしまうのでは、あまりにもおもしろ味がないではないか。どれほどもがき、足掻き、楽しませてくれるか、そんな敵の必死の悪足掻きが、ジャミルを狂喜させるのであった。
『しかし……』
ジェトロは考える。ジャミルが出す本気とは、敵を内部から爆発させることだった。目と目が合った瞬間に呪文を唱えることで、ジャミルの眼光が相手の脳みそをショートさせる。敵は内部から爆発する形になる。
しかし、そういう一撃必殺の魔法は、自分が命令したときにしか使わない。フォルスを殺したのが、それである。自分が山賊を雇ったということがバレてしまった。フォルスは、恐らくそのことを国王に報告するだろう。それを阻止しなければいけなかった。できることなら殺すのではなく失脚という形にしたかったが、もう遅い。自分の政治家生命を守るためには、奴の口を封じるしか選択肢がなかったのである。
ジェトロは、相手を爆発させる魔法は、実は魔力が充実している時にしか使えないとジャミルから聞いたことがある。だから、よほどのことがない限り、使わせないでくれと。
「使うとどうなるんだい?」
ジェトロは好奇心からジェトロは聞いたが、ジャミルは苦笑いを浮かべるだけで答えてはくれなかった。
ジェトロは、不安を隠せない。もしかしたら、自分がフォルスを殺すことに躍起になったせいで、他の子供たちにやられているのではないかと不安になった。もし、今奴が危機に陥っていたとしたら……。
しかし、相手は子供なのだと、思い直す。あのジャミルが負けるはずがない。内部から爆発させるあの魔法を使わなくたって、炎を使った魔法がある。炎の竜巻など威力絶大なのである。
「負けるもんか……」
ジェトロは、その不安をかき消すためか、小さく呟いていた。
「それで、ランドとゼブに関してですが…」
何? ジェトロの思考は秘書の言葉に中断された。
「ランドとゼブ? 誰だっけそれ」
「あの、今回ボスに従って行った兵士たちですが…」
「ああ」
思い出した。遺跡にいる間外を守らせておいた、そして馬車を引いてくれたあの兵士たちか。
「先ほど処刑しました」
ジェトロは、人の行き死にを、実に事務的に答える男だと、この秘書に苦笑した。ま、命じたのは自分だが……。
「そうか…。何か言っていたか?」
「は……。何かの間違いだろう、と……」
そりゃあそうだ。ジェトロがフォルスを嵌め、殺したということを知っている人物は、すべて消す必要がある。たとえどんな下っ端だろうと、重役だろうと、関係ない。外に洩れる恐れもなくはないのだ。
しかし、法的に処刑するには理由がいる。それも死刑は大罪だ。人殺しのような大罪を犯したことにしなければならない。
そこでジェトロは、官邸に戻ってから、地下牢に入れている犯罪者をひとり暗殺させた。その警備に回したのが、あのランドとゼブというふたりの兵士なのだった。
ジェトロは、ふたりを呼びつけた。本来なら、警備中だからふたりは動くわけにはいかない。しかし、呼び出したのは、係長や課長などただの上司ではない。社長である国司が、直々に呼びつけたのだ。そして、ふたりがジェトロのところへ向かっている間に、外で雇った暗殺者が地下牢に入り、そこに収監されている殺人犯をひとり、暗殺したのである。
ふたりを呼びつけたジェトロだったが、ふたりが来た時には「君たちなど呼んでいないよ」と言って、すぐに追い返した。数分の出来事だったが、それだけあれば、プロの暗殺者は仕事を終える。
ふたりが地下へ戻ると、待っているのは囚人の骸だけだった。そして、犯行に使われた凶器は、監視官が使用する机の横、壁に立て掛けてある棍棒だった。
その棍棒が、牢屋の中に、息絶えている囚人の傍らに置かれている。鉄格子の扉の鍵は、締まったままである。これは、当然ジェトロが暗殺者にコピーを渡していたのであるが、それを知らない捜査当局は、この警備に当たったふたりの監視官が、囚人が暴れ出したか何かして、取り押さえたが聞かず、仕方なく棍棒で殴り殺したのだとした。
それなら不可抗力、正当防衛と言える。しかし、そのふたりは身に覚えが無いと言い、無罪を主張した。当然だ。これは完全にジェトロの謀略で、ふたりにはまったく関係のないことなのだから。
しかし、ジェトロはこのふたりを許さなかった。
捜査当局は、ふたりは牢屋に入り、殴殺し、そして鉄格子の扉に鍵をかけて、犯行が明るみに出ないように処理しようとした、と見解した。
別に、それだけならすぐに死刑に処する必要はない。しかし、ジェトロは、その無罪主張に自分の名前が出たことに腹を立てた。
「我々はジェトロ国司に呼ばれて、部屋へ訪れている」
「その隙に、誰かが忍び込んで、奴を殺したのかもしれないではないか」
と、ランドとゼブのふたりは主張し、もっと詳しく捜査することを申し出た。
ジェトロが呼びつけたと言っていることは、ジェトロ本人も認めた。しかしそれは確かにこの部屋に『来た』ということで、『呼びつけた』わけではない、とジェトロは捜査官に答えていた。
「自分たちの犯行を誤魔化す為に、誰かが入ってきたと思わせるために、彼らは僕から呼び出されたと嘘を言ったんだ!」
と、ジェトロは捜査官に訴えた。それがけしからんと言っているのだ。人を殺しておいて、その犯行を誤魔化す為に社長であるジェトロに証言をさせようと画策したのだ。どういう争いがあったかは知らないが、国司をそんなことのために利用したのだ、とジェトロは立腹し、すぐに処刑を命じた。
警察という組織は、この街にはない。しかし、同じような任務を務める組織は当然ある。治安維持部隊みたいなもので、軍とはまた別の兵士が任務に就いている。裁判所もない。その役はほとんどの場合、ジェトロが担っていた。今回の事件も、例外ではなかった。
ジェトロは、彼らふたりを殺すために、これだけ大掛かりな『嘘』を演じたのだった。
すべては保身のため。
先祖代々続いた国司という役職を失わないため、仕方なかったのだ……。
靄の中で、誰かが笑った。
どこか、現実にはない世界のようだ。そこには靄しかなく、地面や空など、上下左右に『空間』が見えない。
その笑い声はとても豪快で、それは少年を安心させてくれた。
しかし、その声の主は、どこにも見えない。
少年は、きょろきょろと、辺りをうろうろしながら、探した。空間の概念のない世界。歩いたというのは少々変かもしれない。歩いているような感覚。実際に歩いているわけではないのかもしれない。
少年は、すごく不安な、心細い気分だった。
笑い声が聞こえる。そして、自分と、その声の主が一緒に過ごした時間を、記憶を、もう一度映像として靄の中に見せてくれた。
「よくやったぞ。それでこそわしの息子だ」
その男は、今よりもまだ幼かった少年の頭を撫でて笑っていた。
少年が自分で木を切り、犬小屋を作った時の記憶である。
その撫でる力が強すぎて、この後少年は泣いたのだが、それも、今となっては恥ずかしいような、くすぐったい思いのする出来事だった。
あるいは、少年が熱を出してひとりベッドでうなされてる時だった。
その男は少年の額に乗せた濡れタオルを一時間毎に取り替え、徹夜で看病してくれた。顔を覆い尽くすようなその大きな手が、熱を測るために少年の額に置かれる度、少年は、『まるで座布団のような手だ』と、自分の父親の手をそう捉えていた。
その時の父親は、口をへの字に曲げ、自分を心配してくれているのだということがわかった。
または、森の中で熊に襲われたとき、お父さんは斧を持ち、たったひとり果敢に戦ってくれた。
そのときも、ただ笑って「大丈夫か?」と言っただけだ。『森に入ってはいけない』という言い付けを守らなかった自分が悪かったのに。それでも父は、肩に傷を負いながらも、怒らずに、優しく少年に笑いかけたのであった。
あるいは、
「よおし野郎共、気合入れてかかれよぉっ!」
山賊との戦争に突入するとき、リーダーらしく、力強い声で皆をまとめ、敵と戦った。
息子には怒鳴らない父親だったが、部下にはよく怒鳴っていた。
『監視台に登り、寝ている兵士がいたときなんか、凄まじかったな。
真夜中の、静寂の中での怒鳴り声。きっと、森の向こう側にある町にも聞こえただろうなあ……。
僕なんか飛び起きちゃったもんね……』
――靄が、空間ごと歪んだ。だんだん、暗い闇が視界いっぱいに広がり、ふわっと、奈落の底に落下するような感覚……。
ガバッ!
「…はあ…はあ…はあ…」
身体が痙攣したと感じた瞬間、ファルクは飛び起きた。
『また、あの夢……』
父のフォルスが死んで、もう二週間が経つ。ファルクは、失神から目を覚ましてからずっと、毎夜、毎晩、同じ夢を見続けていた。
母親は既にいない。どうしたのかも、知らない。生きているのか死んでいるのかさえ、フォルスは教えてくれなかった。
「………」
ファルクはもう一度倒れ込むようにベッドに寝転がると、天井を睨みつける。
『これで終わったのだろうか……。
…まだ、終わりにしたくない……』
ここは、騎士団が住む村ではない。遺跡が崩壊してしまったので、もうそこにいる必要もなくなり、そしてジードとファルクのふたりを病院に連れて行く必要があったので、森を抜けたところにある町に入ったのである。ファルクはもう退院し、他の者と一緒に宿屋に宿しているが、ジードの肺はよくなく、しばらく入院することになった。そう言えば、今日が退院予定日のはずであった。
ファルクはいそいそと起きあがり、服を着替える。
ちょうど支度が終わった頃、父の部下だった男のひとりが、ジードの見舞いに行こうと、ファルクを迎えに部屋へやって来た。
ファルクは、そのおじさんと共に、宿屋から少し離れた診療所に、ジードの迎えに向かった。
診療所の前には、他のフォルスの元部下が何人かいた。この間のジャミルとの戦闘で、遺跡に下敷きになった騎士団のメンバーは、四人もいた。山賊との戦闘で失った人数と合わせて、生き残ったのはほんの十二、三人程度の、近衛騎士団として王宮に控えていた頃と比べると侘しくなるほどの僅かな数だった。
「お。ファルク、遅かったな」
と、彼らは笑顔で上司の息子を迎えた。自分たちも、仲間や慕っていた上司が殺されたことで落ち込んでいるはずなのに、無理に笑っているような様子は感じない。
皆で、ジードの病室に向かった。そこには、医師の先生もいた。
「お、せんせ。ジードは今日退院なんですよね」
と、気軽に声をかける元騎士団のメンバー。無理に気軽さを表しているのだろうか。
父親を殺されたファルクのために。しかし、騎士団の皆は、普段からこんな性格をしているので、ファルクにはその判断がつかなかった。
「冗談じゃないよ。たった二週間で肋がくっつきますかっての」
「何っ、あんた二週間で退院だって言ったよな?」
「しょうがないでしょ。骨折とか病気って、人によって治るスピードが違うんだから」
ずいぶん洒落た話し方をするこの医者は、男性で、年は四十代前半、メガネをかけていて、口ひげを生やしている。
ジードは、肺を傷めたというよりは、肋骨の一部にヒビが入ったのであった。戦闘中、その不安定になった部分が、動くたびにチクチクと肺を刺激していたのである。
「しょうがないですよ。薬師にはどうしようもないんですから」
と、ベッドの背中を少し起こした状態のままのジードはちくりと皮肉を交えて言った。
医者は、ごほっ、とひとつ咳払いし、
「とにかく、退院はまだ先に延びるということで、よろしくおねがいしますよ」
騎士団たちの突き刺さるような冷たい視線の中、彼はいそいそと病室を出て行った。
「…で? 何かわかりましたか?」
ジードは、病室にいるのが自分の身内だけになったところで、話を促した。ジードのベッドの横に、ファルクと、この中では一番年配の髭面のオヤジが椅子に座る。
「ああ…」
と、髭面のオヤジが、椅子に座りなおしながら、頭を掻いた。言いにくいことがあると頭を掻くというのが、この男の癖のようだった。
「それがな。ジェトロ国司が入ったっていう山の中腹に空けた穴。あれ、ずいぶん前から空いてたらしいんだ」
「…え? ずいぶん前から?」
ジードは顔をしかめる。
「だって、見まわりは毎日してたじゃないですか」
「ああ……」
その男は、忌々しそうな顔で、言う。他の連中も、同じ顔をしていた。ファルクだけは、よくわからないといった顔で、ジードの顔だけ眺めていた。
「身内にスパイがいたってことだ」
「スパイだってっ! そんなっ…」
「俺たちだって信じたくないさ。でもな、……でも、あんな都合よく宝物庫の真上に来れる様に穴を空けられるか? 内部構造を知ってる誰かが流したんだ」
最後の言葉は、ジードの顔をまともに見れず、目を逸らして言った。
「………」
ジードは、俯いた。なるほど。確かにたまたま掘った穴が宝物庫に繋がっていたなんてことは奇跡でもない限り無理だ。山は広い。そんな都合よくピンポイントで当てられるはずがない。
しかし……。
「スパイかあ……」
『仲間の誰かが、敵と内通していたというわけか。皆、仲のいい友人同士といった雰囲気を持っていたように見えたが、それは上辺だけだったということなのか……』
「それで、それが誰か、わかったんですか?」
「……今更言っても仕方のないことだが…」
「…はい」
「ジャミルとかいう奴に、斧で襲いかかって行った奴がいたろ? 爆死した…」
「ああ……」
ジードは思い出す。
「確か、ムーザさん…ていったような……」
「ああ、奴だ。奴がスパイだったんだ」
ムーザとは、あまり話したことはなかった。彼は、どちらかというと、村に残るというよりは、外回りの任務の方が多かったからである。外回りとは、見まわりとか、見張り……。
『そうか…。見まわりは、いつも地区ごとに担当を決めて行われていた…。あの山の中腹を、ムーザさんが担当していたのか』
「でも、それだけでムーザさんが? あの時ジャミルに止めを刺しに行ったでしょう? 仲間なら…」
「それが見せかけだったんだよ。俺たちを裏切ったのではないと見せかけるために、ジャミルを八つ裂きにしようとしたんだと思う」
「それにしても……」
と言いかけ、
「いや、…止めましょうか」
と、ジードは話す気もなくなったというように、俯いた。
「ああ。奴は死んだ。…だから、今更ここで言ってもしょうがない……。証拠もないしな」
「…はい……」
「すまんな、ジード。お前には災難だった」
「え?」
「旅の途中だったのに、こんな戦争に巻き込んじまって……」
「いいですよ。俺、楽しかったし…」
「でもなあ。肋にヒビが……」
「それは俺が未熟だっただけです。でも、フォルスさんのおかげで俺はここまで強くなれたんですよ。もしフォルスさんがいなかったら、俺はジャミルの足元にも及びませんでしたよ……」
一同を、重い空気が流れた。
「…信じられないよ……」
と、いつか、隅に立っているひとりが言った。
「あの団長が死んだなんて……」
皆が、ファルクの方を見る。隣に座る髭面のおっさんは横顔だが、後ろに控えて立っている元騎士団のメンバーは、ファルクの背中を見つめることになる。
「………」
ファルクは無言だった。何か、思いつめているような、悲しい目をして、ただジードが寝転ぶベッドの布団を見つめていた。皆の視線が集まっているが、少年はまったく気がついていないようだった。
隅の男の無神経な言葉も、幸いファルクには聞こえていなかったようだ。あの無邪気な、悩むことを知らない能天気なファルクが、ここまで険しい表情をしている。ジードはそれを見つめ、眉をひそめた。
「…それで、ジェトロの動きは?
国王からは、どう言ってきてるんだろうか…」
と、ジードは話題を変えた。
「ああ…。それも芳しくないなあ」
と、髭面のオヤジは再び頭を掻き、
「国王は、どうやらジェトロの報告を真に受けたらしいんだ」
「ジェトロの報告?」
「ああ。奴は国王に、団長が遺跡の財宝を裏で流していると報告したんだ。で、それを阻止するために、止む無く殺した、と……」
「なんだってっ!?」
ジードにしては珍しく、大声を張り上げる。しかし、それは治りかけの肋には毒であった。
「あいつは政治には無知なくせに、こんなところでは悪知恵がよく働く……」
「それで? 国王は何て?」
「調査団を派遣するっていって、今村には大勢の国王直属の部隊が遺跡を調査してるよ」
「……でも遺跡には入れないんじゃ…」
「何か無理矢理瓦礫を取り外してるらしい。で、なくなった財宝を確認するんだってさ」
「確認…て、どういうことですか? どんな財宝があるか、国王は知ってるんですか?」
「そうらしい」
「じゃあ、…なぜ財宝を王都の宮殿にでも移さなかったんですか? こんな辺境の地に置いて行くなんて…」
「ああ。それは俺たちにもわからん。俺たちの任務にはそんなこと関係ないからな。俺たちは言われたことだけをやっていればいい、ってね」
「………」
「それで、国王は俺たちを探している。騎士団の生き残りがいるならそれを探し出し、法廷にかけると言っているらしいんだ」
「…どうしますか?」
「俺個人の意見として言わせてもらうと、どうでもいい。どうせ団長のいない軍になんて、俺は未練はないからな」
「…他のみんなはどうなんですか?」
ジードは、後ろに並ぶ元団員たちを見回した。皆、コクンと頷いた。皆が、フォルスを慕っている。そして、フォルスのいない軍には、戻りたくないらしい。それは、髭面のおっさんの意見と同じであるというサインだった。
「できれば団長の仇を討ちたいが、ジェトロの周りには警備兵がごまんといる。奴に辿りつく前に死ぬのがオチだ」
「………」
「そうなったら、謀反者の烙印は決定的だ。うまくいっても国王への反逆罪。しくじれば国中の笑い者だ」
「………」
「なに、俺たちはこっちに来てから野良仕事も経験している。どこへ行ったってやっていけるさ」
「………」
「…ま、傭兵とか、軍隊とか、人殺しにはもう関わりたくないけどな……」
「………」
「…そんな顔して睨むなよ。…気持ちはわかってる」
「なら――」
「いや。悪いが、俺はやらない。敵討ちをしても団長は帰って来ないんだ。それに、団長は敵討ちを望むような人じゃない」
ジードは、もう何も言えなかった。今まで人殺しを稼業にしていた――と言っても暗殺集団ではなく、あくまで近衛騎士団として、であるが――男たちが出した結論なのだ。それが、もう人を殺したくないと言っている。
怖気づいているのではない。死ぬことなど、怖くはない。そういう死線を何度も潜り抜けてきた、ベテランの戦士たちなのである。
人を殺すことが、虚しくなったのだ。同じ国内の仲間同士が、こうやって人を雇い謀略にかける。騙し合いを演じ、最終的には殺人まで犯す…。
自分たちは、一体何から何を護っていたのだろうか。そして、それにより失ったものは何だったのか……。それを考えると、フォルスの部下だった彼らが虚しくなるのも頷けた。
正直、ジードも敵討ちに乗り気ではなかった。
「……散歩に、行って来ます…」
ジードはベッドの横に用意されている車椅子に腰掛け、
「ファルク、すまないが押してくれ」
と言った。ファルクは、視線をジードの車椅子に移し、
「わかった」
と呟き、椅子から立ち上がった。
ファルクに押してもらいながら部屋の入り口まで行くと、
「…もう少し、考えさせてください」
と、騎士団員に小さく言った。
勝てるかどうかわからない。それでも、戦えるだろうか。ジャミルの時は、死ぬ覚悟があった。刺し違えてもいいと思った。それは、目の前で、直接フォルスに手を下したのが奴だったからだ。元凶とはいえ、ジェトロを殺しても、何の解決にもならないのではないかという漠然とした疑問が、ジードにはあった。
「ねえ…ジード…」
背中からファルクの声が聞こえた。
「ん?」
と、振り向けないから、ジードは声だけで返事をする。
「……父さんの仇……とってくれるの?」
「………」
ジードは、暫く無言でいたが、やがて
「お前はどうだ? とってほしいのか?」
「当たり前だよっ…ジェトロとかいう奴の命令で、父さんは殺されたんだろう? 仇とってよっ…!」
恐らくファルクは涙目だろう。声が震えていた。
無念の涙である。
そう。できることなら、ジードだって仇をとってやりたい。フォルスの無念を晴らしたい。しかし、体調が万全ではない。肋骨にヒビを入れたまま国司の官邸に特攻しろというのか? 何百という兵隊が護っている官邸に、たったひとりで突っ込めというのか?
ジードは、死を恐怖していた。ジャミルのときは勢いと感情で戦ったが、あの恐怖とは全然違うのだ。今回はあの時のような感情の昂ぶりはない。冷静に、特攻するのだ。勝てる見込みのない戦いに身を投じることは、自分の領域を越えている。自分には、旅の目的があったのだ。
「………」
ジャミルに止めを刺されそうになったあの瞬間を思い出し、ジードは手が震えた。
『死にたくないっ…!』
フォルスが爆裂した、あの一瞬。胸がムカムカするような血の臭いを思い出した。
『俺はっ……! 戦いを棄てる騎士団員の皆を、批難する資格などないっ!』
「お願いだよジードっ…僕にできることだったら何でもする! だからっ…」
「ファルクっ!」
ジードの一喝に、ファルクはビクッと体を震わせる。ジードは、振り向かないまま、静かに言った。
「…すまない……」
「ジードのバカっ! 意気地なし!!」
ファルクは泣き叫び、駆け出す。
「ファルクっ!!」
ジードが呼んでも、もうファルクは立ち止まらない。ファルクの中のジードは、もう尊敬の対象から外れされてしまったようだった。
「ファルク……」
ジードは今にも泣きそうな苦しい顔で、ファルクが駆けて行った方を見る。ファルクは、ジードの横を通り、前方に向かって走って行ったのだった。
「………」
ジードは考えた。
『俺は意気地なしだよ……。殺されそうになった、あの瞬間のことを思い出すと、今でも震え出す……。
あの恐怖が…、ファルク、お前にわかるか……?』
もう後ろ姿も見えなくなったその通りの向こうへ、ジードは問い掛けた。
さて……。
『…どうやって病院まで帰ろうか……』
天下の往来で置いてけぼりをくう羽目になった。肋を傷めているジードには、車椅子のタイヤを回せない。誰かに押してもらうしかないのである。立ち歩くことも厳禁。本来なら車椅子の使用も許可されない、重病患者なのであった。
頭上に昇った、正午をとうに過ぎた真夏の焼くような太陽が、ジードの体をじりじりと照らす……。
ジードのバカっ! 意気地なし!
町中をがむしゃらに走るファルクは、精一杯心の中でジードを罵る。
『父さんのおかげで強くなれたんじゃなかったのっ? 父さんに憧れて、村に留まったんじゃなかったのっ!?』
「くっ……」
溢れる涙を拭いもせず、ファルクは駆ける。
『おじさんたちも意気地なしだっ! 何が仇を討っても団長は帰って来ないだ! 団長は敵討ちを望んでいないだ! 自分が臆病なだけじゃないかっ!』
「ちくしょおぉぉっ!!!」
天を仰いだその声は、夏のいやに高い空へ突き刺さるように昇って行った……。
「くっ」
と、周囲の人からの好奇心の目に気付かぬまま角を曲がったところで、ファルクは向こうから走ってきたと思われる誰かとぶつかった。
!?
双方は後ろに飛び、ドシンと尻餅をついた。十歳の少年にぶつかって吹っ飛ぶとは、相手も子供なのだろうか。と、ファルクはひとつの文句も言うつもりで、その涙でくしゃくしゃになった顔を向けた。
しかし、文句は口から出てこなかった。
相手は、ファルクよりも年上であろう。ジードくらいの年齢かもしれない。少女である。しかし、ファルクよりも細い。コートニーよりは背が高いが、肌の下はすぐ骨ではないかと思われるくらい、目の前の少女は華奢な体付きだった。
肌は雪のように白く、髪と眉は真夏の太陽がつくる影のように黒かった。肌は雪のような白さだが、あまり健康的ではなく、どこか病気的な印象を受け、ファルクは言葉を飲み、思わず目を見張ったのである。
「ご、ごめんなさい……」
少女は、呆気に取られるファルクに目を向けることなく、謝り、いそいそと立ち上がると今ファルクが通ってきた道を駆け出した。
「………」
ファルクは少女の行方を目で追っていた。ジードや騎士団員に対する怒りは吹き飛んでいた。
何てきれいな人なんだろう。ファルクが思ったのは、そんな呑気なことだった。
あんな華奢ななりで、あんなに一生懸命走って…一体どこへ行くのだろうか。
すると、間もなく、彼女が走ってきた方角から、五、六人の武装した男たちがファルクの元へ駆け寄ってきた。
「おいお前、ここを白い衣装で全身を包んだ女が通らなかったか!」
バラバラと足音をたてやってきたかと思うと、男たちはファルクにそう高圧的な態度で訊いた。
あ、あの女の人のことだ、と思ったファルクは、これはただ事ではないなと考え、
「走って来た人なら、その角を右に曲がったよ」
本当とは逆のことを咄嗟に言った。本当は右ではなく、少女は左に曲がったのであった。
「よし行くぞっ!」
男たちは、またバラバラと駆け出し、ファルクの言った通り、見当違いの方向へ走って行く。
「………」
本来何にでもすぐに興味を示す野次馬根性の塊のようなファルクは、これも何かの縁だろうと思い、少女の方を追い駆けようと考えた。
彼の自分からトラブルに飛び込んでいくという運命には、これからも逆らえないのかもしれない。
to be continued